2017年3月4日

LA LA LAND


今日の新聞によると、日本のサラリーマンでも副業をやる人が増えてきているという。あるアウトソーシング専門会社は、日本で現在副業をしている人の数は約400万人と発表している。

ただし、その内容を見てみるとウェブ上に物販サイトを立ち上げ、よそから仕入れたものを売って、売値と仕入れ値の差を稼ぐといったローリスク、ローリターンの日銭稼ぎが大多数。月収は数千円程度。赤字が出ていないだけでもマシだし、それ自体が楽しければ、それはそれで結構。あるいは一件500円で恋愛相談に乗る、なんて言うサービスも紹介されていた。

話は変わるが、今日やっとレイトショーで映画「LALA LAND」を観た。ハリウッドで女優を目指す女性とフリージャズをやっている男性の恋愛映画である。

女優志望のミア(エマ・ストーン)は友人とロサンゼルスのアパートに暮らし、MGMのスタジオ内のカフェでウェイトレスをしながら日々オーディションを受けるが、うまくいかない。ミアは失敗続きのオーディションに凹むが、ジャズプレイヤーを目指すセブ(ライアン・ゴズリング)から、自分で脚本を書き自作自演をすればオーディションで落とされる事はないじゃないかというアドバイスを受ける。

そして自分で脚本を書き、小さな劇場ながらそこで一人芝居を打つ。芝居が終了後、厳しい批判の声が楽屋まで聞こえてきて彼女は落ち込むが、その芝居を見ていた1人の映画関係者からその後映画への声がかかる。それをきっかけとしてミアは女優への道を突き進むことになる。

ミアがオーディションを受ける場面がいくつも出てくる。どれもうまくいかないのだけど、その画面を見ていて、彼女自身このミアの役を手にするためにオーディションを受けたのだろうと思った。厳しいが、うまくいくまで受け続けるしかない。うまく行くかどうかも分からない。結果として成功するよりも人生のある部分をムダにしてしまう人たちの方が大部分である。

人気女優を目指すのも、ジャズ・ミュージシャンとして成功するのもハイリスク、ハイリターンだ。

それにしても、エマ・ストーンという女優は目が異様に大きく、一度見たら忘れられない。正確には、目がでかいと言うより眼球がでかい。


LA LA LAND は、監督が「セッション」を作ったデミアン・チャゼルだけあって音楽がいい。ダンスがダイナミックだ。ハリウッドだけでなく、フランスの古いミュージカル映画からの引用やオマージュに溢れていて、映画好きならたまらないだろう。



2017年2月25日

ひと月2時間の「プレミアム」

昨日から、「プレ金」とやらが始まった。いったい何がプレミアムなのか分からないが、月に一度のプレミアムフライデーというのは、月の最終月曜日の終業時間を3時にして、その後の退社時間を「消費」に当てて欲しいという国の方針らしい。

半ドンではない。午後も仕事をするのだ。5時の終業時間が2時間早まって3時になっただけと思えるのだが、何でこんなに新聞やテレビは騒ぎ立てるのだろう。

今日の新聞一面には、「勤務を早めに終えて、クルーズ船のデッキでビールを手に夕陽を楽しむ会社員たち」のキャプションがついたカラー写真が掲載されている。確かに昨日は、いつもより早めに仲間たちと居酒屋で一杯、というのが各地で見られたようである。

ひいき目で見れば、少しは消費の促進に役立っている。ただ、「みずほ総合研究所の試算では、プレミアムフライデーによる消費押し上げ効果は2000億〜3000億円と推計され、普及が進めばさらに拡大する可能性もある」とあるが、いつも通り、まったく中身が分からない。そもそも、それは何年間の話なのか。未来永劫に渡ってなら、確かにそういうことも言えるだろうが。

早々とオフィスを出る社員の映像もテレビで映し出されていた。だが、それらはどれも大企業ばかり。中小企業はどうなんだろう? 企業数で中小企業が日本の全事業所数に占める割合は99.7%。大企業は、わずか0.3%しかない。

従業員数では中小企業で働いている人が全体の70%、大企業が30%。中小企業で働く人ががマジョリティなのである。彼らはプレ金をどう見ているのか気になる。日本の企業で働くそうした多くの人たちには、遠い話に映っているのではないだろうか。

そもそも個人の働き方について、「官」があーせい、こーせいと言うこと自体が私は好きではない。せめて、「プレ金」が新たな分断の種にならなければいいと願っている。

2017年2月19日

風船で宇宙が撮れる

今朝の「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5)のゲストは、『宇宙を撮りたい、風船で』の著者、岩谷圭介さん。


彼が北大の学生だったときから始めた風船による宇宙撮影は、今年で7年目。色んな技術や能力が問われる仕事で、科学者、発明家、エンジニア、アーティスト、そのすべてを兼ねたような感じだ。

宇宙が好きで何か始めた人たち(以前番組に来てもらった「プラネタリウム・クリエーターの大平貴之さんや「宙(そら)先案内人」の高橋真理子さんら)は、既存のジャンルにはまらず、自分で独自の仕事のジャンルを作っていく人が多いように思う。

彼もまた、何になりたいというのではなく、自分がやりたいことを追求しているうちにそれが仕事になったタイプだ。


いまは福島に居を構え、風船を打ち上げるときは沖縄の宮古島へ移動するらしい。打ち上げるときは直径1.5〜2メートルの風船が、上空30キロ以上に上がると気圧の関係で直径15メートルくらいになり、最後に破裂する。撮影用のカメラはパラシュートで落ちてくる。それを回収するというわけだ。

何が映っているか、うまく映っているかは回収後に確認しなければ分からない。偶然にかける。それを彼はいまは仕事にしていて、会社を経営している。

彼の仕事を一言でいえば、プロの風船宇宙撮影家。たぶん日本でたった一人である。これからも素敵な写真を撮って僕たちに見せて欲しい。

今日の一曲は、The 5th Dimension の「Up, Up and Away」。


2017年1月29日

人口減と地方について、また考えてみた

今日の「木村達也 ビジネスの森」(FM NACK5)のゲストは、『人口減が地方を強くする』(日経プレミアムシリーズ)の著者で、日本総研上席主任研究員の藤波匠さん。


日本創成会議の推定では、896の市町村が消滅するとされている。しかし、それらはいきなりその数の市町村で人口が完全に消えてしまうと云うことではない。実際は、地方自治体が従来の行政サービスを提供できなくても、そうした場所に住み続ける人は残り続けるだろう。それが人のいとなみだ。

多住居生活という暮らしの仕方が、これから進んでいくかもしれない。全体では国の人口は減少するが、ゆとりのできた空間をみんなでもっと活用する手はあるはずである。余暇を過ごすなり、期間限定で仕事をするなり、ボランティアという方法もあるだろう。そうすることで、人口減少地の活力を保つことができるかもしれない。

ただし、国の移住促進策にはわれわれは注意する必要がある。地方の村落の延命措置のために、国が一時的な経済支援を人参としてぶらさげ、都会から若い夫婦などを移住させるのは長期的には誰のためにもならない。

引っ越し費用を持ちますとか、最初の何年間は家賃を大幅に割り引きます、そんな目先の話でやってきた人たちは、いずれそうした「お得さ」が薄れた時には別の場所へ移ってしまう。生きていく場所として、どのような生計の手段をその場にみんなで作っていけるか、そこがポイントだろうと思う。


今日の一曲は、RCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」。



2017年1月16日

不合理なチケット料金

新聞に掲載されていたスティングの来日公演の先行予約受付広告。


ロック系のコンサートはずいぶん行ってない・・・。何年か前にブルックリンのバークレイ・センターで観たボブ・ディランのコンサートが最後かもしれない。どうも日本のコンサート会場でやられる「総立ち」が駄目なせいだ。

でもスティングということで、行ってみようかとも考えてるんだけど、料金がS席13,000円とA席12,000円しかない不思議さ。14,000席以上の日本武道館で、この2つしかシートを用意しないのおかしいと興行主は考えないのか。まあ、客のことなんかほとんど考えてないんだろう。昔から何も変わってない。

だいたいSというのは、Special(特別)ってことだから、2種類しかシートを用意しないのだったら、A席とB席でいいはず。

2017年1月14日

自由に生きて死ぬ

水木しげるさんは、人生の達人だった。自らを「水木さん」と呼ぶその独自のアイデンティティの持ち方と、肩肘張らない飄々としたもの言いに多くの人が影響を受けてきた。僕もその1人だ。

彼をインタビューした本『水木さんの「毎日を生きる」』のなか、東日本大震災の被災地で自殺者が増えているという話題になった。特に原発事故のあった福島県で自殺者が多く、深刻度をましている。

それに対する水木さん(彼は自分のことを水木さんと呼ぶ)の答えは、シンプルだ。
水木さんは、どんなときでも生きたかったから。自殺する人は、それが幸せだと思って死ぬんです。止める必要は無いんじゃないですか。
水木さんは、ニューギニアのラバウルに出征し、爆撃で左手を失う。戦場では、毎日毎日上官から不合理な理由でぶん殴られていた。最後、小隊の他の全員が亡くなった状況の中で、1人生き残って帰国した。そうした壮絶な体験は、実際に経験したことのないものには真のところは分からない。

そうした経験からの自殺に対する感想である。言われてみれば、その通りである。

2017年1月1日

「日本一のスナバはある」。小さきものの戦い方。

今日の「木村達也 ビジネスの森」(NACK5、朝9時20分から)は、先週に引き続き『小さくても勝てる』(中央公論新社)を出された鳥取県知事の平井伸治さんをお迎えしました。


鳥取県は、人口が57万人。47都道府県で人口が一番小さな県である。隣の島根県と「どっちがどっちだっけ」と間違われることが多いらしい、ちょっと可哀相な場所。しかも山陰地方という名前から、日の当たらない暗いイメージを持たれてしまっているとも。実際は、山陽地方、山陰地方というのは陰陽道の陰と陽から名づけられたもので、ただAとBといった違いらしい。

しかしその言葉のイメージから、太陽光発電の企業を呼び込むときに苦労したという。たかがイメージだが、されどイメージである。これだけは、時間をかけて戦略的に変えて行くしかない。

そうした「小さな」県から情報発信するために平井知事はかけずり回り、トップセールスマンとして僕らの番組にも気軽に出演してくださるのが気持ちいい。 

57万人という県民人口のサイズは、東京や大阪、神奈川などとは比べようもないが、僕が昨年の夏に訪ねたアイスランドは人口が33万人という「国」だった。それでも他にない自然資源や島国という立地を最大限に活かし、世界中から観光客を呼び込んでいる。

平井知事は、かつてお隣の島根県にスターバックスができ、スターバックスがない県は日本で鳥取県だけになった時にその事への感想を聞かれたテレビのインタビューで「(鳥取県には)スタバはないが、日本一のスナバはあります。鳥取砂丘です」と答えて有名になった。「○○はないが、○○はある」というフォーカスの利いた発想で、小ささを逆手にとった打ち出し方をこれからも見せてほしいものである。


先週、今週の選曲は、ポール・マッカートニー&ウイングスの「Band on the Run」とスターシップの「Nothing's Gonna Stop Us Now」。


2016年12月18日

曲げないドイツ人、決めない日本人

ネルケ無方さんは、日本在住25年になるドイツ人。曹洞宗、安泰寺(兵庫県)の住職である。高校生の時に坐禅と出会い、ベルリンで坐禅道場に通い始めたのがそもそもの禅の道に進むきっかけという。


ドイツ人(に限らないだろうけど)は、主義主張が明確。曖昧さを嫌う。彼は日本で運転免許を取った。ドイツでは、横断歩道ではかならず歩行者が優先。親は子どもに、クルマが来ていようが「お前の方が優先なんだから、手を挙げて渡れ」と教えるらしい。日本では、右を見て左を見て右を見て、「クルマが来ていなかったら」手を挙げて渡りなさいと教える。まったく違うらしい。

ドイツ人の頑固さがよく分かる話だけど、日本で寺の住職が務まるのかなあと、ふと余計なことだけど気になってしまう。見かけもインパクトがある。

いまは自給自足の寺(安泰寺)を継ぎ、多くの弟子を抱えている。彼は寺では弟子に、キュウリのように育ちなさい、と教えている。キュウリは、上から垂らした一本の麻紐を自分でつかんで昇って育っていく。自律性に富んだ野菜だ。

一方、多くの日本人はトマト。トマトを育てるには支柱を何本も立てる必要がある。そして、何日かおきに紐でしっかり結んでやらないと風で倒れてしまう。横から生えてくる余計な芽を摘んでおかないとだめだし、水をやらなければならないが、やり過ぎると腐る。手間がすごくかかる。トマトのように、日本人は小さいときから親から過剰な面倒を見てもらって育ってきているのではないかと。

この観察にどう反応するかは人それぞれだろうが、おおむね当たっていると思う。彼の頭には、日本の家庭内での教育があったみたいだったけど、実際のところ大学でもこれは言える。


 今朝の一曲は、アレサ・フランクリンの A Natural Woman。


2016年12月4日

ベンチを置こう、気が向いたらそこで話しかけよう

番組(NACK5「木村達也 ビジネスの森」)のゲストに、『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』(青土社)の著者、精神科医の森川すいめいさんをお招きした。



日本での自殺者数は、3万人を超える水準がずいぶん続いた。人口あたりの自殺者数でみると、米国の2倍、英国やイタリアの3倍の数になる。しかも統計上の自殺者数というのは、「遺書」が残されたものだけである。

実態はというと、それ以外に変死者として数えられるもの(遺書などが残されていないもの)が年間15万件ほどある。WHO(世界保健機構)はその半数を自殺者としてカウントしているので、その計算だと日本の自殺者数は年間10万人を超えていることになる。この数は半端な数ではない。

自殺の理由としてこれまで考えられていたものは、死別、離婚、破産、病気、離職など数々あり、それらの理由から自殺をどう防ぐかということ対策が考えられている。

森川さんは、ある時、当時慶応大学大学院生だった岡檀さんが日本で自殺が極めて少ない地域に何度も足を運び、現地調査を重ねて、そうした場所を「自殺稀少地域」と名づけたことを知る。

これまで考えられていた原因から自殺をどう防ぐかという考えから、自殺が明らかに他地域と比較して少ない地域にある特性を知ることで、自殺を予防する因子を知ることができるのではないかと考え方を拡げたのである。

岡さんは、学会報告で「人間関係は、疎で多。緊密だと人間関係は少なくなる」「人間関係は、ゆるやかな紐帯」といったことを述べていた。 人と人とが密接な関係のもとで助け合う地域こそが自殺稀少地域だと思っていたが、実際はそうではなかったのだ。

考えてみれば、これらは理にかなっている。職場や近所付き合いなど、われわれの周りを見回してみれば分かるとおり、人間関係が密な集団が存在している組織やコミュニティでは、そうした集団(グループ)間の緊張関係が生まれ、またそうしたグループ間のすき間で孤立する人が生まれる。ママ友と呼ばれる母親たちの集団など、そうした典型かもしれない。

岡さんの調査によると、自殺稀少地域では近所付き合いは緊密ではなく挨拶程度、  立ち話程度の関係で、それでいて人間関係の数が多い。

彼女は、自殺が極めて少ない地域の特性として「右へ倣えを嫌う」「赤い羽根募金の寄付率はとても低い」といった紹介をしている。みんなと同じ意見に自分を合わせることを好まず、自分がどうしたいかを考えるということらしい。(赤い羽根募金に関しても、寄付そのものが嫌いなのではなく、その集め方が彼らは好きではないということである。)

思わず膝を打ってしまう。そうした地域の人たちは、同調圧力に支配されていないのである。だから、楽なのだ。人間関係から受ける不要なストレスがなく、それが自殺率が極めて低いという現状に結びついているのだろう。

森川さんが話してくれたことで、面白いな、これ役に立つなと思ったことは、町なかにベンチを置こうという話。ベンチがあると、出かけた人が疲れた際にそこで一休みできる。そこで出会った人とたまたま言葉を交わすきっかけになるだろう。通りすがり、そこに知り合いがいれば、一言あいさつをし、返礼が返ってくる。

こうした薄く広い人間関係が、人に安心と心地よさを与え、いざというときに人を救う。

そうした目で日本の街を見ると、実にベンチが少ない。繁華街にはほとんど無い。街中だけでなく、駅にもベンチがもっとあっていい。以前はもっとあったはずだ。通勤客が増え、混雑してきたのにつれてベンチが「安全性の確保」とかで撤去されてきている。

ただ座っていることを、それを無為なこととして社会が拒絶しているような感覚を僕はずっと前から感じている。

今日の選曲は、Thompson Twins で Hold Me Now。


2016年11月21日

タンザニアのマチンガについて話を聞く

昨日のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」は、ゲストにサントリー学芸賞を受賞した気鋭の人類学者の小川さやかさんをお迎えした。

彼女が書いた『「その日暮らし」の人類学』は、もともとは学術論文をベースして書かれたものであるが、一般的な書籍としてとても読みやすく再編集されている。 

 
タンザニアで十年以上にわたって調査し、そこで出会ったマチンガと呼ばれる零細の露天商たちに混じって自ら露天商として生業を立てながら現地の実態を調べ上げたそのガッツは素晴らしい


彼女はタンザニアで、日本にはもう無くなったいくつもの宝ものを見つけたようだ。その中の1つが、「仕事は仕事」という考え方。どんな仕事も等価と彼らは捉え、仕事に序列を作らないことに誇りを持っている。その場その場で、何でも仕事にしてしまう逞しさ。

彼女によれば、スペシャリストではなくジェネラリストを目指しているという。ある種、リスク分散のためだ。日本のように社会が安定しているわけではないので、どこでどうなるか分からない。不安定な社会のなかで、どんな事があっても働いて食っていけるようにということか。

そして、何でもこなせる人になっておくため、仕事はつねに副業を持っている。いい仕事があれば、すぐにそれをやろうとする。いろんな仕事を組み合わせて新しい仕事をつくり出していく。実に逞しいのだ。

日本でも局所的にではあるが、副業を持つという働き方が認められてきている感じがある。企業が社員に副業を持つことを表立って認めているところもある。副業を持つことで社員が新しいスキルを身につけたり、新しいアイデアを生み、そのことで本業に刺激を与えることを期待している。

日本の管理社会の典型である日本企業が、マチンガにやっと追いついた(?)とも考えられる。

タンザニアのマチンガたちは、とても風通しがいいと小川さんは言う。特定のメンバーシップのなかでのつながりだけでなく、その場でたまたま会った人、いまここにいる人、もう会わないかもしれない人とのちょっとしたやり取りを大切にする生き方。そうした、一見どうでもいいような人と、自然なかたちで助け、助けられて生きている。

話を聞くにつれ、なんだかとても彼らが羨ましくなってきたぞー。  

番組中にかけた曲は、アルバート・ハモンドの「落ち葉のコンチェルト」。



2016年11月16日

先輩の死

学生時代のサークルの先輩、I氏が亡くなったという知らせがあった。彼とは学生時代の夏に、合宿で北海道の山々を3週間あまり一緒に歩いた事がある。生真面目な尊敬すべき人物だった。

早すぎる死には驚かずにはいられなかった。事故なのか、病気だったのか。逝去を知らせる同期からの一斉メールには何もそのあたりは書かれていなかった。

「寂しいなァ」「たまらないなァ」の一言もなく、葬儀に花輪を出すとか出さないとか、花輪は奇数じゃダメだとか、その代金をどう分担し、いつ回収するとか、葬儀業者のような話ばかりがメールで交わされるのを見て、その後のメールを読まなくなった。

彼の若かった頃の顔を思い浮かべながら、静かに手を合わせ冥福を祈った。

2016年11月13日

勘違いを生んでいるMBA

『結論を言おう、日本人にMBAはいらない』という本を、かつての同僚である遠藤功さんが出した。日本のビジネススクール、とりわけ彼が在籍していた早稲田のビジネススクールに対する批判の書である。

日本のビジネススクールの世界のなかでの位置づけ、そこでの問題ある教授たち、MBAという言葉に振り回される学生と志願者、今さらながらに遠藤さんが言いたいことを沢山抱えて早稲田を辞めていったのが分かる。

彼は、大学院という場で経営学を勉強することをすべて否定しているのではないと思う。ただ、閉ざされ管理された大学という場でのそれの限界を指摘しているのだと僕は読んだ。

その上で、ビジネススクールの姿勢に大いなる疑問を突きつけている。

結論を言えば、日本のMBAにはほとんど価値がない。ビジネススクール側がどんなに宣伝しようが、日本でMBAをとっても、劇的に人生が変わることなど期待できない。 
確かに、受験希望者を集めて行われる大学の説明会の場で、大学側の人間がこの数年「MBAはあなたの人生を変えます」というような惹句を投げかけていたのは浅薄すぎると言わざるを得ない。

学位でしかないMBAに人生が変えられたんじゃ、寂しすぎる。人の人生は、その人にしか変えられないもっと重たいものだろう。


2016年11月11日

転職しづらい社会という不幸

当時24歳だった電通の女性社員が、昨年12月に会社の寮から身を投げて亡くなった。原因として考えられている第一の要因が、過剰な残業である。

昨年の秋頃から仕事量が増大し、残業を繰り返す日が続くだけでなく、休日をほとんど取れなくなっていた。心身共に疲れ果てていたことをうかがわせる彼女のメールやツイッターでのつぶやきが残されいる。

これから人生を謳歌していくはずの若い人が自らの命を絶つという悲惨な出来事だが、それにしても不思議に思ってしまうのは、仕事の場で周りにいた人たちはなぜ助けの手を差し伸べなかったのかということ。

在宅勤務で一人で働いていた訳ではない。彼女と上司の間には何人もの先輩社員がいたはずだ。同期も近くにいたことだろう。しかも彼女は会社の寮に住んでいたと云うではないか。そこでは同じ釜のメシを食っていた仲間がいたはずなのに。

毎晩深夜に会社から戻り、メイクを落とす気力もなくベッドに倒れ込む毎日。髪を整える時間もなくオフィスに出社し、そのことで上司から叱られたり、土日も寮から会社に出かける日々が続けば、放っておいても周りがその異常さに気付くだろうに。なぜ助けてやれなかったのか、悔やまれる。

一昨日開催された厚生労働省主催のシンポジウムに彼女の母親が参加し、過労自殺で娘を失った無念さを語った。昨年11月、彼女は母親に対し「上司に異動できるかどうか相談し、できなければ辞める」と語っていたらしい。

それに対して上司は「仕事を減らすから頑張れ」と答えたが、長時間労働は解消せず、12月に命を絶ったという。無責任で問題解決能力のない上司だと思う。

こうした事件を受け、国も企業のなかでの労働実態に目を光らせるようになってきているが、それだけで問題がなくなるとは思えない。企業の業績が向上せず、仕事量が変わらなければ、社員は会社内でなくてもどこかで仕事を片づけなければならなくなる。決まった時間にオフィスの灯りを一斉に消したからといって解決にはならない。

過労死の問題は、今に始まったことではない。僕が英国の大学院に留学していた頃だから、もう四半世紀前になるが、その頃も日本では過労死が大きな社会問題となっていた。英国人の同級生たちからは、日本人はどうしてそんなに(死ぬほど)働くのか、頭がおかしいんじゃないかと言われたのを覚えている。

その頃、過労死に相当する英語はなく、当時われわれは Death by overwork という言葉を使ってその事を議論していた。その後、Karoshi は英語の辞書に載るようになった。
https://en.oxforddictionaries.com/definition/karoshi
しかし、日本の状況はその後もほとんど変わっていないように見えて仕方がない。

先月17日の日経朝刊に「転職しやすさ賃上げを刺激、勤続短い国は潜在成長力高め」とする記事が掲載されていた。OECDと米労働省のデータをもとに分析されたもので、勤続年数10年以上の割合が小さいほど、潜在成長率が高いことが示されている。

2016年10月17日付日経朝刊3面から

転職が活発で自由になされている国ほど労働力の有効活用がなされ、会社も国も活性化されて、結果として経済全体を押し上げる動きに繋がっていることが推測できる。

不要なリスクを感じることなく、人がもっと自由に働く場を求めて転職できる社会をつくっていかなきゃと思う。転職することで差別されたり、非正規でしか働けなくなるなんてことがあってはいけない。そうした社会ができれば、ブラック企業なんて呼ばれている類の会社は自ずから淘汰されて無くなっていくはずだ。

実際は、一人ひとりが古い労働感をぬぐい去り、働くことに対する意識を強く変えていくことから始めるしかない。

自殺した彼女には、自死を選ぶ前に倒れ込んで入院しちまうか、会社を辞めて欲しかった。

2016年11月5日

慶応大学に気品はあるか

慶応大学の広告学研究会(広告学って何だ!?)の学生たちが集団で女子学生に乱暴をした事件に関し、大学が処分を行ったという報道があった。

処分の理由は、下記のように「気品をそこね、学生としての本分にもとる行為をした」ことだとか。「気品」って何だ!? 大辞林によると気品とは「気高い趣。どことなく凛として上品な感じ」とある。


当事者である男性学生らが、こうした趣からまったくかけ離れた存在であることは言を俟たないだけでなく、疑問を感じるのは慶応大学が何を以て学生たちにこうした「気高い趣」をもとめているのかということ。

今回の事件は、慶応の学生たちに気高い趣があるかどうかというような話ではないはず。レイプされた女子学生はどうなる? 報道が事実なら、慶応大学の大学としての矜恃と気品のあり方を問いたい。

処分内容の無期停学も慶応らしい?! 普通なら退学である。しかし無期停学である。無期停学の無期は、永遠という意味ではない。現時点で期限を定めていないだけのこと。ほとぼりがさめれば、必ず密かにこれらの学生を大学に復学させるはず。賭けてもいい。

福澤先生は泣いている。


2016年10月16日

プラネタリウム男

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、『プラネタリウム男』(講談社現代新書)を出されたプラネタリウム・クリエーターの大平貴之さん。


日本で唯一のプラネタリウム・クリエーターを名乗る大平さん。子どもの頃から大のプラネタリウム好きで、中学時代には既に自作のプラネタリウム投影機を手作りしていたというから驚きだ。


現在製作しているプラネタリウムの投影機は、メガスターと名づけられている150万個もの星を投影可能という世界でも最先鋭のもの。

従来の従来のプラネタリウムは1万個ほどの星しか映すことができなかった。その数は、人間の肉眼で見えるはずの星の数だとか。理屈で考えれば、肉眼で見える星をプラネタリウムでも見えればいい、というのがそれまでの考え。それに疑問を持ったのが、中学時代にオーストラリアで頭上に瞬く満点の星を見て心を振るわせた大平少年だった。

一つひとつは肉眼では見えなくても、そうした見えない星も無数に集まると薄明るく見える。天の川がそうだ。肉眼では見ることができない7等星、8等星、9等星などの無数の星が空を埋め尽くしていて、それらがあるから夜空の奥行きを感じることができる。

そうなんだ、目に見えるものだけが存在しているわけじゃない。個々にはその存在をはっきりと見ることができなくても、そうした無数のものがあることで拡がりと奥行きができる。星だけじゃなく、そうしたものは僕らの世界にたくさんある。

今朝の選曲は、デヴィッド・ボウイの「スターマン」。1972年に発表された彼の5枚目のアルバム、The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars に収録されている。


2016年10月2日

ビールで地域をつなぐ

今朝の番組ゲストは、『つなぐビール』(ポプラ社)の著者で、ベアレン醸造所専務取締役の嶌田洋一さん。 岩手県盛岡市にある地ビール(クラフトビール)の会社を友人の方と13年前に立ち上げ経営をされている。


「ベアレン」は、ドイツ語で熊の意味の複数形。岩手県には熊がたくさんいるし、力持ちのイメージもあってブランド名をベアレンにしたという。

ベアレンのビールは、日本外国特派員協会が「世界に伝えたい日本のクラフトビールベスト8」の選考でそのグランプリに選ばれたという優れもの。僕も盛岡から取り寄せて、3種類のベアレンビールを前日に味わったのだが、本当に良くできたおいしいビールだった。

日本で地ビールが生まれたのは、1994年の規制緩和がきっかけである。それまで日本製のビールは大手4社が圧倒的だったのが、90年代後半はまさに地ビールブームといってもよい時代だった。その頃、数多くの地ビールが生まれ、その後なくなってしまった地ビールも多いらしい。

そうした、いわばブームが去ったころに、嶌田さんは現在の社長である木村さんと一緒にビール会社を立ち上げた。

事業を立ち上げる前の時期、全国の地ビール会社を見学で数多くまわったという。そこで、彼らはビール工場を一歩出ると、その地ビールがどこにもないようなことが気になった。工場の向かいの酒屋さんにも置いていなかったりして。店の人に聞くと「あれは、工場に来た人たちしか飲まないから」と。地域とのつながりが大切なことを感じたという。

その時代、地域の特産品的な「変わった」「尖った」地ビールが多かった中で、彼らはとにかくおいしいビールを造りたいと考えた。

ビールは鮮度が大切。その意味では、生産地と消費地が近いのが理想的。おいしいビールを楽しめる。そのためにも地域コミュニティとの結びつきが必須と嶌田さんたちは感じた。

 「ビールは本当に面白い」と嶌田さん。麦芽とホップと酵母と水の組み合わせだけで、無限の液体を生むことが出きるからと。ますますおいしいビールを造ってほしいと思う。


今朝の一曲は、ジャニス・ジョプリンで Move Over。



*番組は、10月から毎週日曜日朝9:20からの放送になりました!

2016年9月24日

スマホ断食、できるかな

今朝の「木村達也 ビジネスの森」(NACK5、8:15から)は、先週に引き続きゲストに作家の藤原智美さんをお招きして、彼が最近出された『スマホ断食』(潮出版社)をもとに対談をさせてもらった。



藤原さんをこの番組のスタジオにお招きするのは約2年ぶり。その時に番組で取り上げた本は、『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』(文藝春秋)。その本のあとがきの最後の一文で、彼は「これからネット断食に入ります」と宣言されていた。

ネットからスマホへ表現が変わったのは、藤原さんにとってもスマホの持つ意味がこの2年あまりで格段に大きくなったってことなんだろう。

ネットに依存し、ネットでつながっていることで初めて、自分が今ここで生きていることを確認できているというような若者が増えて来ているような感じがする。アイデンティティが自分の中にあるんじゃなくて、他人との関係(つながり)、図で描くと自分と相手を結んだ双方向の矢印の上あたりにアイデンティティがあるような印象と言っていいかもしれない。

もちろん藤原さんは、自我をそうしたずれた位置にもっているようなことはないのだが、彼にしてもネットサーフィンであっという間に気がついたら時間を奪われていた、ことがしばしばあるとのこと。

そうした状況から自分を引きはがす彼なりの1つの手立てが「スマホ断食」。月に一度ほど、金曜日の夜から月曜日の朝までスマホを断つというもの。まあ、プチ断食である。

でも、その効果ははっきりあるようで、その断食後もしばらくはスマホを手にする機会が減るという。

確かに、電車の車中などで見かける若い人たちがスマホべったりという、ある意味でフロイト的にその対象と自分を切り離すことができていない状況を見るにつけ、理屈ではなく習慣としてスマホから離れる機会を作るのは必要であると思ってしまう。

たかがスマホ、されどスマホなのである。これが現実。

先週、今週の選曲は、Kansus "Dust in the Wind" と The Moody Blues "Nights in White Satin"。




2016年9月16日

十五夜の月

昨日は9月15日、中秋の名月だった。だけど、お月さんがまん丸になる十五夜は今日、9月16日。先日行った川崎市のプラネタリウムで解説者の方に教えてもらった。

で、バルコニーから満月の撮影を試みた。あいにくの曇り空で、スッキリとは行かなかったのが残念。


2016年9月13日

生田緑地のプラネタリウム

川崎市の生田緑地にある「かわさき宙(そら)と緑の科学館」を初めて訪ねた。

 ここのプラネタリウムの投影機は、プラネタリウム・クリエーターの大平貴之さんが開発したMegastar Ⅲ Fusion が設置されていて、世界最高レベルの星空が見える。光学式とデジタル式の両方の投影法を兼ね備えた機械で、実に奥行きの深い、そして自然な感じの星空を眺めることができる。

実は今度、僕のラジオ番組にゲストとして大平さんをお呼びするので、それに備えて彼の開発した最新式のマシンを見ておきたかったのだ。

プラネタリウムを訪ねたのは、実に久しぶり。今はなき渋谷東急文化会館屋上の五藤プラネタリウム、改築になる前の池袋サンシャインのプラネタリウム以来だ。あ、ニューヨークのアメリカ自然史博物館でもプラネタリウムを楽しんだことがあるのを忘れてた。そこは、ニューヨークでの僕の絶対のお薦めスポットだ。

日本のプラネタリウムだが、ゆったりとした解説員の生の解説が好きだ。基本的なシナリオはあるのだろうけど、その日に多い観客のタイプやその時期の出来事などを考慮しながらライブ感のある、そして親しみを感じさせる説明をしてくれて楽しい。ほんとにリラックスできる。


2016年9月8日

湖へ

何度目になるだろうか。レイキャビクに来てから、朝となく夕となく、時間があるとホテルから歩いて10分くらいのチョルトニン湖の周辺を散策するのが日課のようになっている。

日本語のガイドブックには、チョルトニン湖と書いてあるけど、現地の地図ではチョルトニン・ポンド、つまり湖でなく池。それに何かびっくりするようなものがある訳じゃないんだけど、ただその周りを散策してるだけで幸せな気分になる。なぜだろう。

夕暮れ後、うす闇の光のなかのチョルトニン湖