2017年4月16日

誰も使わない「だれでもトイレ」にならなければよいが



4月8日の日経夕刊の記事から。
早稲田大学が4月から性的少数者(LGBT)が安心して学生生活を送れる環境の整備に乗り出した。多目的トイレを「だれでもトイレ」と改称してLGBTの学生が気軽に利用しやすくした(後略)。
記事の中で、これまでLGBTの学生たちが、利用者が少ない遠くのトイレを使って膀胱炎になったりしたからとある。しかし、それへの対応になっているだろうか。

「だれでもトイレ」の意図は分かる。だが、そうした狙いで大学によって設置された「だれでもトイレ」を誰が使うのか。誰も使わないんじゃないだろうか。だって、そのトイレに出入りしていることが、まわりへの明らかなひとつのシグナルになるのだから。それを知られたくないLGBTの学生が、どうして使えるだろう。パラドックスだ。

ドラえもん風の馴染みやすい名前をつけるなど、大学の配慮を示す気持はよく分かる。だけど、特別なトイレを設けるんじゃなくて、本人が自分で思う性別のトイレをそのまま使えばいいじゃないか、と僕は思うのだ。個人的にはトイレに誰が入って来たかなんて気にしないし、ましてや個室を使うのであれば、問題にもならない。これって、LGBTの実状を知らない人間の浅はかな考えかな?

記事の終わりあたりに「大学にとってダイバーシティー(多様性)の確保が喫緊の課題になってきた」とある。なんか違う気がしてならない。「確保」するとかなんとか力むようなことではなく、自分たちとは違う人も自然と受け入れる、あたりまえの人間性を大切にするだけのことじゃないのかなあ。