2014年5月31日

TEDxTokyoのライブビューイング@横浜

TEDxTokyoが渋谷のヒカリエで開催された。朝10時から夕方6時までの長いイベントである。

渋谷会場への参加はとっくに締め切られていたのだけど、横浜にある富士ゼロックスR&Dスクエアで社員とその家族、友人を対象にしたライブビューイングをやるという誘いを受けて出かけた。


日産ビルの隣にある富士ゼロックスの建物は、開放感と自然光に溢れたすばらしい環境だった。

ビッグデータとは何か

今朝の「ビジネスの森」は、統計学者の西内啓さんにゲストに来ていただき、主にビッグデータについて話を聞いた。彼は『統計学が最強の学問である』の著者である。
http://tatsukimura.blogspot.jp/2013/04/blog-post_14.html


言葉だけが先走りしているように思われてならないビッグデータ。企業の人と話していると、顧客データベースや販売履歴があれば、ビッグデータの分析で何か将来のヒントが自然と解き明かされると勘違いの向きが多い。

たいした仮説も持たず、ただデータを高い金を払って分析させても実際にビジネスの役に立つ結果が得られるわけではない。大量のデータがあるだけで将来の指針が得られるのであれば、めでたいことに経営者は組織に不要になる。

ションベルガー&キクエは『ビッグデータの正体』のなかで、著者たちはビッグデータとは何ぞやという問いに、"from some to all" すなわち、「部分計測から全体計測へ」と言い表している。

この変化が何を意味するのかというと、それは因果関係の追求から相関関係の追求への変化であるといえる。それは、なぜそうなのかという理由が分からないまま、実際はこうだからという現象にだけ着目する方向に進むことを示している。

確かに、蓄積された膨大なデータによって、「オレンジジュースとアスピリンの組み合わせがガンを治す(ガンが治った患者の多くはオレンジジュースとアスピリンを摂取していた)」ことが確実にいえるのであれば、それはなぜかというと問いはまずは置いておいても、その事実の方が重要になる。

これを敷衍していうならば、そこでは「答えさえ分かれば、理由は不要」ということだ。アマゾンが利用者に対して行っているレコメンデーションではその理由などは誰からも問われないからよいだろうが、保険会社がこれまでの診療記録をもとに今後の保険料の算定を行ったりする場合には、納得のいく説明ができないことになる。

いずれにせよ、ビッグデータは打出の小槌などではない。企業であれば、明確なビジネス上の目的を持って分析に望まなければ、労多くして得るものは少ないままに失望の海に沈む。

2014年5月28日

ブルー・ジャスミン

「ブルー・ジャスミン」は、ウディ・アレンが監督をした最新作である。主な舞台は、サンフランシスコ。回想シーンにニューヨークでの様子がたびたび挟み込まれる。

ニューヨークを舞台に映画人としてのキャリアをスタートしたウディ・アレンが、その後ヨーロッパのいくつかの都市を舞台に映画を作り、そして西海岸にたどり着いた。


ジャスミンは、ケイト・ブランシェットが演じる主人公の名前。本名のジャネットが「平凡すぎる」からとジャスミンにその名を変えたニューヨークのセレブリティで、アメリカの大実業家の妻という役柄。それが、夫のビジネスが根っからのいかさまだったため破綻。結局すべてを失いサンフランシスコの妹の家に転がり込む羽目になる。

タイトルのブルーは「憂鬱」といった意味だが、状況は憂鬱どころではない。ジャスミンの精神は徐々に、そして確実に壊れていく。ブロークン・ジャスミンだ。その様子は救いようがない。ウディ・アレンの眼差しも醒めていて、彼女を救済しようとなどと考えていない。辛い映画である。

般若顔を時折見せる主人公のブランシェットが、実にうまい(アカデミー賞主演女優賞を獲った)。彼女なしでは作品は成り立たなかったし、興行的にも成立しなかったと思う。

お話は、テネシー・ウイリアムズの「欲望という名の電車」を連想させる。作りがよく似ている。実際、ケイト・ブランシェットは、母国オーストラリアの舞台でブランチの役をかつて演じてたことがある。

60年前のニューオリンズを舞台にした話をベースに、なぜウディ・アレンがいまサンフランシスコとニューヨークを舞台に物語を書いたのか。

彼は昔から女性に対して厳しいというか、心を赦していない感じがしていた。ジョークで女を笑わせようとするが、あくまでも女性は彼にとって立ち向かう対象だった。

心底女をやっつける映画を作りたかったのかもしれない。しかも興業として成り立つ一般的な作品として。そのためには誰もが知るテネシー・ウィリアムズの戯曲に併走しながら、米国の2大都市を舞台に、ケイト・ブランシェットというこれ以上考えられない配役を決めたというわけだろう。まぎれもない、アレンの職人技である。

2014年5月27日

炎上マーケティング

昨日の新聞で、ある若い社会学者が書いた文章のなかに「炎上マーケティング」という言葉があった。

炎上マーケティングとは、「わざと非難されるような極端な発言をして注目を集め、議論を喚起することで結果的に話題の中心になったり、自分のことを宣伝したりする」ことらしい。

漫画『美味しんぼ』で福島を訪ねた主人公が鼻血を出すという、放射線被害を連想させる描写が「売り上げ目当ての炎上マーケティングだったのではないかとの指摘もある」と書いているが、それはまずないだろう。連載を始めたばかりの漫画ならともかく、30年以上の連載実績を持つこの漫画がそうしたことで今さら話題性をひこうと画策する理由はない。

いずれにせよ、本来、売らんがために話題を振りまくこと狙っただけの活動を「マーケティング」とは呼ばない。

つねづね思っていたことではあるが、「マーケティング」はほとほと融通無碍な概念として捉えられている。その証拠に、一見、どんな言葉だってマーケティングの前につけることができる。ほとんど無限の接頭辞が「マーケティング」には可能であり、それらしく聞こえてしまうから始末が悪い。

「炎上マーケティング」でマーケティングが意味するところは「売り込む手法」である。もちろん、マーケティングは一方的な売り込みではないし、その点でステマなどと呼ばれているステルス・マーケティングといった考え方もマーケティングではない。

 

2014年5月26日

やらせレビュー

5月22日号の週刊文春で紹介されていた記事だが、飲食店を紹介しているサイト「食べログ」の評価点数について疑問を持った記者がいた。ある店の評価で、口コミの評価は5.0、5.0、4.0、4.0と高い評価が並んでいるにもかかわらず、なぜか総合評価は3.1となっている。

そこで、彼はサイトを運営するカカクコムにその疑問を投げかけた。すると、総合点は利用者がつけた評価を単純に足しあげて平均したものではなく、特定のレビュアーが高い評価を付けないと総合評価が上がらない仕掛けが施されていると。そして、「低得点に甘んじているという飲食店様においては、まだ点数への影響力が高い複数のレビュアー様が高得点をつけられていないという状況ではないかと考えられます」と彼が受けた説明が続く。

ということは、先の店の評価については「影響力の高いレビュアー」による評価が悪かったからということになる。

店の関係者やサクラによるヨイショ評価を避けるために、一般利用者の評価ウェイトを低くし、信頼のおける良質なレビュアーの評価が総合点に大きく影響するようにしているということなら、なるほど納得がいく説明ではある。

しかし、その記事によれば、複数の飲食店経営者が次のような証言をしているという。「毎週1回は代理店から『食べログに広告を出せば、影響力の大きいレビュアーが来店する可能性が高くなりますよ』と営業電話がかかってくる」

これは何を意味するのか。広告をサイトに出してくれたら、影響力が大きい(つまりサイト上での店の評価を左右する)レビュアーを送りこみますよ、そして総合評価が上がりますよ、ということ。つまりその場合、味やサービスには関係無く、ということであろう。

一見、「みんなの声がもとになってるんだよー」という、いい人の顔を見せていながら、自分たちの都合に合わせて裏側で操作しているのが気持ちわるい。

他にもこうした一般の利用者から分からないところで恣意的な仕組みがなされているものは多い。ただ、多くの利用者がそうしたことを気付かないまま情報操作されている事実について、僕たちはもっとよく考える必要がある。

若い人たちにとっては、こうしたことは「当たり前のこと」であって特別気にするような問題じゃないのかもしれない。学生たちからは「別にいいじゃん」とか笑われることかもしれないが、僕はこの件に疑問を持ち、そしてその疑問を解こうとアクションを取った記者におおいに共感する。

そんなことを考えてたら、今日の読売新聞の読者投稿欄に洋食店を経営する神戸の方が、以下のような投稿をされてたのを目にした。


新聞にしろ雑誌にしろ、広告か記事かの区分けについて注意しなければ混同してしまいがちだ。インフォマーシャルというinformationとcommercialをくっつけた造語も一般的になっている。

日本では、それらはマスメディアでは「PR」や「お知らせ」と表記されることが多い。それが消費者にとって十分な配慮かどうかの議論はあるが、報道機関ではないネットではそもそも事実と広告を区分けしようとする考えすら希薄である。

2014年5月22日

初夏のコンサート

サントリーホール主催のコンサートでテノールのまた従兄弟が歌うというので、大学の仕事をそそくさと片付け、夕方ひさびさに六本木へ出かけた。今日、彼は日本フィルハーモニー交響楽団をバックに4曲+アンコール曲を歌った。

また従兄弟といっても親子ほど年が違うのだが、サントリーホールの大ホールで朗々と歌う姿は大したものだ。身内びいきかもしれないが、日本を代表するテノールになると信じている。

2014年5月19日

自分でメソッドをつくり出す知性

初診だったので、遅くともお昼にはすべて終わるように早めに出かけたつもりだった。

1時間半ほど待たされて、まずは内科で診察。その後、血液検査、尿検査、レントゲン撮影を受ける。呼吸器科の医師による診察。吸入薬による治療。診断。点滴による治療。診断。肺機能検査。診断。

会計を済ませ、処方箋を手に病院を出たのは午後5時過ぎだった。もちろん昼食抜きで、その時は目が回りそうだった。

目の前にぶら下がった点滴薬

点滴を受けたのは生まれて初めてのこと。ベッドに寝ているだけで他にすることがなく実に退屈だったので、ちょうど持ってたキンドル・ペーパーホワイト(電子書籍リーダー)を針が刺さってない方の手で操作しながら岡田斗司夫『オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より』を読む。

実に面白かった。新聞に寄せられた人生相談に彼が答えるのだが、愛と工夫に満ちている。よくあるような、頭よさげで、もっともらしく、それでいて相談者の想いにまったく沿っていない大人の回答ではなく、相手の気持ちの底を掘り下げて掘り下げて、真に解決をしなければならない問題と現実的な解決法を示してやっている。

そこに行き着くための彼の方法論は独自だ。それらは学術的な裏付けはないが、とても分かりやすく、実際的で腑に落ちるものである。本か何かで読んで身につけた有効な方法論を適切な用途で用いて問題解決をするのも賢いが、自分で目的にあった独自の方法論を編み出すのが岡田は得意だ。しかもそれらが役に立つ。彼はある種の天才である。

2014年5月16日

地方の良さも相対的なのである

先日、本を読んで以来、一度じかに話をうかがいたいと思っていた『里山資本主義』著者の藻谷浩介さんとラジオの番組で対談をした。 

番組は、この土曜日朝8時15分からFM 79.5 Nack5「ビジネスの森」で放送予定だ。
http://www.nack5.co.jp/program_1262.shtml?date=2014-05-17
http://tatsukimura.blogspot.jp/2014/02/blog-post_16.html

彼は、日本の地方にある数々の里山の豊かさを力説する。中国地方の地方都市で生まれ育ち、東京の大学に通い、卒業後は都内で仕事をし、海外の大学院でも学んだという経歴は僕と同じ。

里山の良さと言っても、日本の若い人たちにはあまり実感がないだろう。彼らが、そうした場所で生まれ育っていても、また都会で生まれ育っていても。

僕自身、日本の地方の良さを本当の意味で感じ始めたのはそれほど昔ではないように思う。自分の年齢と、それなりに国内外の方々を見てきて初めてそれらのすばらしさや恵まれた環境に気付かされたといっていい。

絶対的な価値なんてそれほどあるもんじゃなくて、たいていのことは色んな比較の上で僕たちは評価を下している。

2014年5月11日

SNLが見られなくなってしまった

アメリカNBCが制作している長寿番組にSaturday Night Live(SNL)がある。ジャンルでいえばコメディなのだが、強烈な風刺が効いていてアメリカのリベラルな連中(特にNYを中心とする東海岸)の笑いの感度がよく分かる番組だ。http://www.nbc.com/saturday-night-live


日本ではHuluで見ることができたのだけど、日本での放映は終わりになるらしい。理由は、この4月にHuluの日本での事業権を日本テレビが買ったことがきっかけだろう。シーズン38をもって5月18日で日本からのSNLのすべての視聴ができなくなる。

Huluに毎月1000円ほどの料金を払っていた理由がなくなるので、解約することにした。もちろんラインアップには、他にも映画やテレビ番組があるにはあるが、どうも僕にはつまらないものばかり。

米国の人気番組は放映権料が高いから継続しなかったのかもしれないが、そこは営業努力で加入者を増やすなどして他にはない優れたコンテンツを提供していかなければ、きっとじり貧になるんじゃないだろうか。

今日からNHK総合テレビで、ダウントン・アビーが放映される。米HBOによる大ヒット作品である。番組の内容もNHK的だ。一方、SNLはといえば、番組内容から日本の地上波はちょっときつい。

システム上の抜け道を使った視聴サービスを提供しているところもあるようだが、どこか合法的に番組を提供してくれるところがないだろうか。Amazonがインスタントビデオで流してくれると簡単でいい。


2014年5月3日

優れたサービスデザインとしてのラウンド・アバウト

映画「The World's End」に、英国最古のラウンド・アバウトが出てきた。
http://www.bbc.com/news/uk-england-beds-bucks-herts-22246576
 
世界最古のラウンド・アバウトは英国のものではないらしいが、英国をクルマで走っていると、とりわけ地方都市や郊外のあちらこちらでラウンド・アバウトに出くわす。

ラウンド・アバウトでは道路が空なのに信号が赤だというだけで止まっている、というようなケースは発生しない。また、完全に一時停止せずに環道に入るチャンスが多いので走行に遅れが少なくなるし、環境への負荷も減る。

誰のアイデアか知らないが、実によくできた設計である。十字の交差点と違って信号機の設置の必要がないのがいい。日本では停電などの折、警察官が交差点に出て手旗で交通整理するが、もともとそうした必要はない。

交差点を「点」と考えるのでなく、植栽などを施した島(丸い面)にしてその周りを流れに沿って緩やかに回ろうと考えた発想がポイントである。実に優れたサービスデザインの例だといえる。

一般的なラウンド・アバウト


2014年5月2日

酔っぱらいとエイリアン

昨夜、レイトショーで観た「The World's End」は、予想外の映画だった。まったく予備知識をもたず、中年のお男たちが登場するノスタルジー&コメディー映画くらいに思って出かけたところ、映画は途中で妙なSFチックな展開に。監督も役者たちも知らなかったので、そうした展開は想像すらしなかった。

この映画、高校時代の悪友たちが当時育った町で再会し、高校卒業時になしえなかった町内の12のパブをすべて飲み倒すというストーリーが縦糸としてある。その最後の目的地(パブ)の名前がThe World's End。これ、アーサー王伝説で、アーサー王たちがサクソン人を相手に戦ったとされる12の戦いをモチーフにしている。

現代のネットワーク社会や画一化された企業サービス(典型例としてスターバックスがしつこく取り上げられている)への批判を横糸として織り込みながら、酔っぱらいたちがエイリアンたちを粉砕するというスラップスティックである。

下敷きにしているアーサー王伝説にしろ、インターネットやスターバックスに代表されるアメリカ型の経済モデルへの辛口の批評にしろ、いかにも英国の映画らしい。

http://wn.com/the_world%27s_end



2014年5月1日

深夜のコンビニで思うこと

先週の日曜日(27日)に放送されたばかりのNHK「調査報告 女性たちの貧困 〜”新たな連鎖”の衝撃〜」が、昨晩24:40からもう再放送されていた。それだけ初回放送後の反応が大きかったのだろう。

僕は日曜日の放送分を見たのだけど、番組で紹介されている女性がまだ夜も明けきらぬ早朝からコンビニで働いていたのを覚えている。都会では比較的年配の女性のパートの働き口はスーパーのレジ係で、若い女性の働き口はコンビニがまかなっているように見える。

コンビニで深夜や早朝帯に働いている人たちに出会うと、彼女たちは昼間はどうしているのかと(まったくお節介ながら)気になる。学校に通っているのならともかく(疲れてしんどいだろうが)、夜から早朝までコンビニでずっと働き、そのあと自分の部屋に帰って昼間は寝ているだけという子もたくさんいるのではないかと想像する。

逆説的ながら、コンビニのアルバイトがあるからそうした彼女たちの生活が存在しているとも云える。深夜だからこそ比較的割のいい時給で働け、そのため生活を昼夜逆転させ、学校に行ったり、友達と遊んだりという当たり前の昼間の暮らしを切り捨てて過ごす毎日。そうしたアルバイトでスキルを磨くことができないことは分かっているのだろう。いつまでも続けられないことも分かっているに違いない。でも、やめるわけにいかない状況だ。

トレーシー・チャップマンのアルバム『Tracy Chapman』のなかに「ファスト・カー」という曲がある。当時23歳だった黒人女性歌手の彼女が歌うその歌詞の中には「コンビニエンス・ストア」という言葉が出てくる。


酒浸りの父親を捨てて母親が家を出て行き、残った彼女はいたたまれない思いを抱えたまま父親の面倒を見るために学校をやめた。そしてコンビニのレジでアルバイトを続け家計を支えながらも、八方ふさがりの暮らしから逃げ出したいと思っている。そんな彼女の願望をボーイフレンドが手に入れたクルマに託して歌っている。

トレーシー・チャップマンの歌は、こんな詞で終わっている。
You got a fast car
Is it fast enough so you can fly away?
You gotta make a decision
Leave tonight or live and die this way

この歌が発表されたのは1988年だから、いまから26年前のこと。その後、アメリカはどうなったのだろう。毎日コンビニで働くだけで行き場を失った彼女はどうなったのだろう。アル中の父親や差別が深く残る土地を捨てて彼のクルマで遠くに行ったのだろうか。それとも・・・。そして、いま日本でコンビニでしか働けない若い女性たちは、これからどこへ向かうのだろうか。