2013年2月21日

グッゲンハイム美術館でのGutai(具体)展

久しぶりにグッゲンハイム美術館へ行ってみた。本当の目当ては、そのすぐ近くにあるクーパーヒューイット国立デザイン美術館だったのだけど、行ってみたらそこは改装中で閉館されていて・・・。

 
グッゲンハイムでは、特別展として Gutai: Splendid Playground が開催されていた。
http://www.guggenheim.org/new-york/exhibitions/on-view/gutai-splendid-playground

1952年から1974年まで芦屋や大阪を中心として活動していた前衛美術集団である具体美術協会の活動内容を取り上げたものである。ここで紹介されている作家で元々知っていたのは元永定正だけだったけど、この集団の奇想天外な発想と思い切りのいい表現にはついうれしくなり、作品を見てて何度も声を出して笑ってしまった。

偶然かどうか知らないが、時を同じくしてニューヨークにある世界的な2つの現代美術を主に扱うミュージアムが、戦後ほとんど同じ時期に活動した関東と関西のアバンギャルド集団をテーマに特別展を開催している。
http://tatsukimura.blogspot.com/2013/02/tokyo-19551970-new-avant-garde.html

帰りしなに寄ったミュージアム・ショップで現代美術家、堀尾貞治の作品集「Sadaharu Horio」(Vervoordt Foundation)を見つけた。50ドルしたが、迷わず買って帰る。これも今日の収穫。

美術館内のトイレ(3階と4階)


2013年2月20日

ユニット WORLD ORDER

日本の知り合いが「こんなのあるよ」と、須藤元気の WORLD ORDER in New York のYouTubeサイトを教えてくれた。「ニューヨークの街で見かけた?」とか聞かれたけど、、、、ねえ。


いま日本では、子どもたちが学校であの歩き方をみんなで真似してんじゃないかなあ。

WORLD ORDER "2012" のプロモーションビデオは、メキシコシティが舞台になっている。


今年の1月に訪ねたテオティワカン遺跡や宿泊したホテル周辺の風景が出てきて懐かしい。
http://tatsukimura.blogspot.com/2013/01/blog-post_7.html


2013年2月19日

ダガンの「戦略的直観」

コロンビア・ビジネススクールで「Napoleon's Glance」というちょっと変わったタイトルの授業を担当するW・ダガン教授が書いた本に『戦略は直観に従う』(原題は、Strategic Intuition)がある。

この本でダガンは、戦略的直観は「思考」であり、「感情」の一形態である単なる直観と区別している。また、「即断」を可能にする専門的直観とも戦略的直観は異なるとしている。著者がいうところの専門的直観とはヒューリスティクスに近い。

クラウゼヴィッツの戦争論アプローチを「戦略的直観」の源流とし、ジョミニの「戦略的計画」と比較している。両者の違いは、一瞬のボールの不規則な流れからゴールラインまでの展開を瞬時にイメージしつつ、それを連続的に繰り返しながら展開するラグビーと、あらかじめゲームプランを描いた上で試合をステップ・バイ・ステップで進めるアメリカンフットボールの違いを思い起こさせる。

これまでの戦略論の文脈のなかではおおかた否定的な意味合いを持たれていた「直観(Intuition)」を正面から打ち出したのは、M・ポーター流の戦略論が戦うべき市場や競争相手を所与のものとしていることへのアンチテーゼである。

現在、企業が置かれている状況は、これまでになく速い変化の波に乗っている。あるいは、呑み込まれている。顧客の嗜好の変化や競合の戦略転換、新しいテクノロジーの登場、それらに伴う企業を取り巻く環境の変化はまるでラグビーボールのようにどこに転がっていくか分からなくなってきている。一方、これから新たにビジネスを起こそうとする連中にとっては、自分たちが未来を作るチャンスが拡がっている。

そうした状況の中で、1970代の産業組織論をベースにしたポーターの競争戦略は、静的な市場の分析には役に立つかもしれないが、そうした市場自体が年々限られてきているのが実態だ。

New Yorker誌でM・グラッドウェルが掲載していた(その後書籍化された)記事や、行動経済学の発展も戦略的直観の重要性が語られる際の背景としてある。今後、この流れに沿った戦略論が次々と現れることになるだろう。ただその際、「語り」に頼ってしまう言説をどうモデル化できるかがポイントになる。

(以下追記 2013年2月25日)
その後、この本のタイトルにある直観(intuition)という言葉に居心地の悪さというか違和感を感じていたが、その理由に今日やっと気付いた。それは、ダガンが言っているところのものは推論(チャールズ・パースが名づけたアブダクション=仮説的推論)だということ。つまりそれは認識であって、直観ではないのである。

2013年2月17日

Girls vs. Boys

OECDが3年ごとに実施している各国の15歳を対象にした科学領域のテストの結果を図示したものが新聞に載っていた。65カ国を対象に3年ごとに実施しているもので、下記の図は2009年の結果をもとにしている。

http://www.nytimes.com/interactive/2013/02/04/science/girls-lead-in-science-exam-but-not-in-the-united-states.html

いくつかの興味深い傾向が見られる。このテスト点数を見る限り、アジアでは女子が男子より優秀。ヨーロッパと米国では逆で、男子が女子に勝っている。

日本の15歳の世界の中での位置はというと、男子はフィンランド、香港、シンガポール、韓国に次いで5位。女子はフィンランドと香港に次ぐ3位である。(「上海」のスコアは一都市だけのデータしか公表されておらず、中国全体を示すものではないので検討対象から除外)

日本では大学の理系に進学するのは男子の方が圧倒的に多いのは、どういった理由なのだろうか。男子の理科系科目の高校での伸びが女子より大きいからだろうか。あるいは能力とは別に、将来仕事に付くための方向性として女子は文科系科目を、男子は理科系科目を選ぶからだろうか。

2013年2月14日

日本は計画経済国家か

日本の新聞が「電力、相次ぐ値上げ 東北電が家庭向け11%申請へ」という見出しの記事を掲載していた。

東北電力は東日本大震災で多くの設備が被災した。女川(宮城県)と東通(青森県)の両原発は停止しており、より多くの部分を火力発電に頼らざるを得ないなかで燃料費の増加が経営を圧迫していることが報告されている。

こうした状況の中では 、現実的対応として電気料金の値上げはやむを得ないと思う。しかし、僕が気になったのは記事のなかの次のところである。
電気料金は東電が昨年5月に家庭向けで平均10.28%の値上げを申請したが、経産省の審査で8.46%に圧縮し昨年9月から実施した。昨年11月に関電が同11.88%、九電が同8.51%の値上げを申請し、今年4月の実施を目指して経産省の審査を受けている。
まるで統制経済である。

一見すれば、東京電力が10.28%の料金値上げをしようとしたのを8.46%に抑えてくれた経産省は、国民にとって「正義の味方」と受け取れないこともない。しかし、元々が総括原価主義で計算された数字だ。

問題は、価格について市場のメカニズムが存在してないということである。

さらには、数字の中身が国民にはブラックボックスであるだけに、東電は経産省と前もって相談済みで10.28%増の数字を作ったと疑われたとしても不思議ではない。結果として、電力会社はもともとの目標を達成し、経産省は中身を知る由もない国民から「いい仕事をした」と評価されるというシナリオだ。

政府がやらねばならないのは、電力の地域独占体制の変更や発送電分離を着実に進める手立てを考え、電力供給と需要についての新たな制度設計をすることである。既得権を持つ勢力の「それなら、停電が頻発してもいいのか」という脅しがいつまでもまかり通るのはおかしなことだ。法人だけでなく、個人も米国のように電力供給事業者を自由に選べるようになるといい。

2013年2月11日

大臣、それとも投資家?

安倍政権の甘利経済財政大臣が、株価(日経平均)について「(本年3月末の)期末までに1万3千円をめざす」と講演会で話したらしい。

なぜ「1万3千円」なのか。その数字の算定基準は何なのかが知りたい。なんとなくそう思って言ったとしたら、大臣が話すような内容ではないはずだ。メディアがそのまま報道するだけで、金額の根拠を問わないのは認識不足。

そもそも閣僚が、市場によって決定される株価や為替レートについて「こうあるべき値」を口にすること自体が問題である。

先の大臣は、自分か家族が保有している株式の値上がりを念頭に、経済財政大臣ではなく投資家の立場で発言してしまったのか。あるいは、誰かに誘導されているか。どちらにしても、やってることがおかしいことに変わりはない。

2013年2月10日

体はアタマ

昨晩からの雪が積もりに積もった朝だった。このところ、米国北東部は雪に見舞われることが多い。


今日の午後、国連ビルの近くにあるジャパン・ソサエティで劇作家の平田オリザによるワークショップがあった。興味半分で出かけた。参加者用のチケットはすでに売り切れなので、僕が手にしているのは見学者用のチケットだ。

初めて集まった集団をどうやって一つにまとめるか、メンバー間に共感を生み出すか、自然なコミュニケーションが行き渡るようにするか。自分を他者(たち)との関係性の中でどう表現するかというコミュニケーション(デザイン)の構築を目的にした練習が多かった。彼が用いている手法は、大学でも応用できそうな感じだ。

以前、劇団「第三舞台」が行うワークショップに参加したことがある。そちらは、役者がどう脚本を読み、役作りをするかを狙いにしたものだった。

僕たち大学人がやっている仕事は、あまり身体を使わない。しかし、知性というのは頭から生まれてくるだけではなく、体からも生まれてくると思っている。正しくは体がなんとなく発見し、頭がやがてそれに気づき言語化する、という感じだ。そう、体はアタマなのだ。僕が旅をする目的のひとつは、そのもう一つのアタマに考えるきっかけを与えてやることだと考えている。

2013年2月7日

Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde

MoMA(ニューヨーク近代美術館)の最上階、特設会場で Tokyo 1955–1970: A New Avant-Gardeと題したエキシビションが開催されている。

日本が戦後から復興、再生を目指し馬車馬のようにかけ始めていた時代、熱気が溢れかつ混沌とした世の中でさまざまなアートのうねりが誕生していった。静かな今では、その勢いは創造もつかないほどだ。アートが時代に一撃を加え続けた15年である。

いろんな運動に赤瀬川原平が登場する。今さらながら、彼のアーティストとしての影響力の大きさを感じる。
http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/1242


 
2階にThe Yoshiko and Akio Morita Media Galleryと名づけられたギャラリーがあることを今日まで知らなかった。ここで現在、Performing Histories (1) という展示会が行われていた。

作品<<作品と私>>

2013年2月6日

ゼロ・ダーク・サーティー

夜、映画「Zero Dark Thirty」を観に行った。監督は、2008年に「ハート・ロッカー」でアカデミー監督賞と作品賞を受賞したキャスリーン・ビグロー。今回の作品でも作品賞にノミネートされている。


オサマ・ビン=ラディンの居所を、アメリカのCIAがいかにして突き止め、そして米海軍特殊部隊がどう攻撃し殺害したかが描かれている。

途中、なかなか決め手の手がかりを掴めないでいることに業を煮やしたCIAの幹部が、スタッフを前に「お前らは3・11を忘れたのか。罪のない市民が3000人も殺された・・・」と檄を飛ばす。そして、スタッフたちの動きがいっそうめまぐるしく、過激に進む。

70数年前、リメンバー・パールハーバーの掛け声でアメリカ中が一つになって太平洋戦争に突入したのも、アメリカ人が持つこうしたセンチメントというかメンタリティーがあったから。今も昔も変わらない人々である。

映画の冒頭、CIAによる捕虜への執拗な拷問シーンが描かれる。米国内で「あった、なかった」と論議を生んだが、実際にそうしたことはあったのだろう。この件を巡っては、米国の有力な上院議員が配給元のソニー・ピクチャーズに抗議を行うところまで行った。ビグローがアカデミー監督賞にはノミネートされなかった理由は、このあたりにあるんじゃないかと思う。