2013年12月31日

マーケティングは世界を救うか

日経新聞「私の履歴書」欄のコトラーの連載が終わった。彼はもともと数学や経済学、意思決定論を専攻した後にマーケティングの分野の研究者に移ったことは知っていたが、そのきっかけなどを興味深く読んだ。

ただ、いくら彼がマーケティング概念の拡張論者であるにしても、回を重ねるにつれて語られるマーケティングについての拡大解釈がエスカレートしてきたのは「?」である。

マーケティングを、世の中を豊かにし、環境問題など各種の社会的課題を解決してくれる「魔法の杖」のように語るのは違和感がある。「マーケティングが、世界の平和と繁栄を実現する役割を担う余地は十分ある」と言われても、具体的なアプローチが示されなければ残念ながら納得できるものではない。

コトラーは、まるで「マーケティング教」の教祖のようになってしまったかのようである。

2013年12月21日

窓からの富士

大学の年内の授業は、昨日が最終日だった。夜間のゼミのあとは研究室で学生と1時間ほど話し、その後机の周りを片付け、駅へ向かう道すがらでふと立ち寄ったラーメン屋で夕食を済ませて自宅に着いたらもう夜中の12時近かった。

空気が乾燥してくるこの季節。朝、研究室に行き、西側のブラインドを上げるとまず「今日も富士山元気かな」と遠くに目をやるのがいつの間にか習慣になった。

高層ビルに少し姿を隠しながらも、晴れた日は遠くに富士山を眺めることができるからだ。日中その姿をきれいに望める日は少ないだけに、そうした時はそれだけで得した気になる。陽が西に沈む夕方は、そのシルエットを眺めてぼうっと手を休めることもしばしばである。



2013年12月5日

マンデラ氏が亡くなった

ネルソン・マンデラ氏が亡くなった。現代の世界でもっとも影響力のある人のなかの一人である。95歳だったというから、それはそれで仕方がないことだけど。不屈を誰よりも体現した人。

2013年12月2日

虹 ー No rain, no rainbow

学生時代の友人Aの墓参りのため、新潟へ向かった。今年が3回忌である。

今日の関東平野は秋晴れのよい天気だった。関越自動車道をひたすら北へ。谷川岳を貫く関越トンネルを抜けると、山なみには雪がかぶさっていた。道路脇にも雪が積もっている。

空の色は、トンネルを抜ける前とまったく変わった。雨が断続的に降りかかるが、峠をいくつか越えると雨は止み、やがてすばらしい虹が道路の向こうに現れた。路肩にクルマを停め、しばし虹の帯に見とれた。


2013年12月1日

使用許諾契約

パソコンのアプリケーションのアップデートは日常的な行動になっている。なかには毎週といってよいくらいアップデートがかかるものがある。


こうしたアップデートは日常的なので、アップデートに際して画面に現れる使用許諾契約に目を通す人はほとんどいないはずだ。長文の面白くもない文章を読む時間も労力ももったいないからだ。

考えるまでもなく、これはその名の通り、契約書である。よくよく考えると目を通さず「同意する」と承諾してよいのかとふと疑問も浮かぶ。規約のなかにクッキーで収集した個人情報の自由な利用を認めるといった、利用者の権利を一方的に侵害する条項があってもわれわれには分からない。かといって、自分でいちいち目を通すのは現実的ではないし。

だれか、その「使用許可契約」の内容を自動チェックし、こちらに不利益を及ぼす内容があったさいに知らせてくれるサービスを提供してくれるとありがたいんだけどね。

2013年11月24日

ハンナ・アーレント

大学の帰り、神保町に「ハンナ・アーレント」を観に行く。岩波ホールは久しぶりである。

劇場が、というよりその上映ラインアップのせいだろうが、観客の雰囲気が他の一般館とはかなり異なる。見たところ今日は、中年以上の女性同士のペアが圧倒的に多かった。次に比較的若い女性同士。若い男女のカップルは数えるほどだ。

髪がかなり白くなった男性の1人客も目立つ。彼らの多くは映画の上映が始まるまで、席で静かに本を読んでいる。文庫本ではなくハードカバーが多かったのは、彼らの年齢(老眼)のせいか。

映画の途中、隣の客の携帯電話が突如けたたましく鳴り始めた。慌ててバッグの中をまさぐっているその女性を見たら、むかし「海を感じる時」でデビューした作家Nだった。彼女が教えている大学も近くだったな、と頭をかすめた。

ハンナ・アーレントは、『全体主義の起源』で知られる20世紀有数といわれる女性哲学者。ユダヤ人である。彼女は、アドルフ・アイヒマンの裁判傍聴記(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)を米国のニューヨーカー誌に連載して同胞のユダヤ人たちの間で物議をかもす。

ナチスの親衛隊にいたアイヒマンは、ホロコーストの中心的人物であり、大戦後にアルゼンチンで潜伏生活を送っていたところをイスラエルの諜報機関モサドによって見つかりエルサレムに連行された。1961年に裁判にかけられ、1962年に死刑になっている。

彼女はニューヨーカーの連載のなかで、裁判傍聴の様子を中心に、欧州各地でどのようにユダヤ人が国籍を剥奪され、収容所に送られ殺害されたかを詳述している。彼女はこの本の中でイスラエルは裁判権を持っているのか、アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか、裁判そのものに正当性はあったのかなどの疑問を投げ掛けた。

さらに、アイヒマンを極悪人として描くのではなく、ごく普通の小心者で「取るに足らないただの役人に過ぎなかった」と描いた。

記事のなかで彼女は、アイヒマンは命令にただ従っただけだったと主張した。彼の犯した罪は、官僚支配の行き渡った世界での非人間性のもとで行われたものであり、その無思考性と悪の凡庸性こそが問題だとした。

辞職を強硬に迫る大学の同僚やナチを擁護したと強烈な非難を投げかけるイスラエルのシオニストなど、ユダヤ人のナチスに対するルサンチマンのすさまじさを感じつつも、「考える人」アーレントとそれを支える家族や編集者の存在の大きさと力強さに勇気づけられる映画だった。


2013年11月22日

ヒースロー空港へ

学会は20日で終了。21日夕方のフライトで日本へ戻る。

ホテルで朝食をさっと済ませた後、朝10時の開館と同時にカーディフ美術館を訪ねる。それほど大きくはないが、近代や現代の有名な画家の作品に加えて、地元ウェールズを代表する作家の作品が多く展示されていた。

カーディフ美術館

 昼過ぎ、昼食用のタルトを2つとナッツ1袋を買って、ヒースロー空港行きのバス、ナショナル・エクスプレスに乗り込む。そして一週間前に来た道を、そのまま今度は東へ走る。

ところが途中、高速道路でバスの運転席側のサイドミラーが突然壊れ、走っていたバスは路肩に停車。見ると風圧でミラーが破損して、ぶらぶらとぶら下がっている。これが路上に落下すると、間違いなく後続車が事故になる。

運転手がバス会社に連絡し、救援を待つ。僕はバスの前から3列目あたりに座っていたのだけど、その間運転席までやって来て、サイドミラーがなくたって車は走れるのだから空港へ向けて走るべきだとか、このままだとフライトに遅れるかもしれないからタクシーを呼べとか、強烈な要求をしてくる乗客がいるのに驚く。たいていは、アメリカ人か中国人である。

40分ほど待って、乗り換え用のバスがやって来た。以前、ハワイでも途中でバスが故障して、道中で30分ほど待って救援のバスに乗り換えたことがあったのを思い出す。

まあ外国ではこんなもんだろうと、十分ゆとりをもって出たので慌てることはなかった。むしろ、こんなちょっとしたハプニングのおかげで、バスを乗り換えた際に隣に座っていたロシア人女性ととても親しく話ができた。地質学者である彼女はその仕事柄か、旧ソビエト連邦内をずいぶん旅していて、興味深い話をたくさん聞かせてくれた。別れ際にメールアドレスを交換した。

2013年11月20日

Morgan Arcade in Cardiff

カーディフは小さな街。中心地の主な場所はほとんど歩いて回れる距離にある。繁華街の中に、古い趣を残すモーガン・アーケードがある。落ち着いた雰囲気のアーケードのなかに靴屋や本屋、カフェ、レコード店、カメラ屋など、いずれも小さな店構えである。




本屋のショウウインドーには、研究社版の『ビジネス英和辞典』が展示されていた。古書も扱ってるので、カーディフ大学で勉強していた日本人学生が売っていったものかもしれない。

またこのアーケードには、スピラーズという1894年に開店した世界最古のレコード店がある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Spillers_Records



2013年11月17日

Croeso i Gymru!

ロンドン・ヒースロー空港からバスでカーディフへ。車はM4(国道4号線)を西に向かって走り、セバン川を渡ったところでイングランドからウェールズになる。するとまもなく Croesso i Gymru! と書いた看板が目に入る。Croesso i Gymru! は、Welcome to Wales!(ウェールズにようこそ!)の意味。

ここでは、道路標識や公共の掲示はウェールズ語と英語の併記が法律で決められている。ウェールズ語では英語のtaxisをtacsisと表記するように、比較的新しい言葉は英語に似ているが、そうではない言葉は表記も発音もまったく別ものである。

 
駅の出口に掲げられている表示


ウェールズに入った日、学生時代の友人が息子を連れてバス・ステーションへ迎えに来てくれた。The Mill House というのが彼の家の住所で、その名の通りかつては地域の製粉工場として使われていた建物に一家で住んでいる。

子どもたちは学校でウェールズ語を必修の第二言語として学んでいるのだが、それをあまり好んではいないようだった。ウェールズ語を習得する必要性があるわけではなく、政治的な背景をもとに無理矢理学ばされているからだ。

ウェールズは16世紀の半ばにイングランドに併合され、その後ウェールズ語は劣った言語とみなされて教会以外での使用を禁止されてきた歴史がある。その結果、ウェールズ語を話すことができる人の数は減り続けてきた歴史がある。それへの歯止めをかけるためにウェールズ政府が学校での必修化を決めたのである。

言葉は、人が生きてきた歴史と文化そのものだ。力によってそれを奪われようとしたことへの抵抗の気持ちがあるのは当然のこと。しかし、英語が当たり前となった状況で、ウェールズ語を子どもたちが嫌がるものまた自然なこと。

いったん自分たちの「スタンダード」を奪われると、苦労するのである。

2013年11月13日

規制という幽霊

今週末から英国の学会に行く予定である。場所は、南ウェールズのカーディフ。そこから40キロほどのところに、古い友人の家がある。一度彼の家を訪ねたいと思っていた。そこで、近くの駅に着く電車の時間やら連絡するためにスカイプで電話をした。スカイプでの通話は課金はされるが、ほとんどタダみたいな料金なので助かる。

ただし、スカイプ電話の発信番号通知サービスが使えない。相手にこちらが誰だか知らせるためには必要だ。スカイプは日本語サイトにそのサービスの案内は載せているのだが、実際は利用できない状態になっている。(http://www.skype.com/ja/features/?intcmp=SN-Header#calling)

調べてみると、世界で日本とメキシコだけがそのサービスを利用できないようだ。なぜかと疑問に思い調べたところ、ユーザーフォーラムでスカイプのスタッフらしい人が以下のような書き込みをしているのを見つけた。
すでに対応しなくなって6年ぐらい経ちます・・・・・対応のできなくなったのは、日本の規制のせいですので難しいですね。

コストを度外視すれば可能なのですが、普通の電話からかけた方が安くなるという使えないサービス内容を回避するために、未対応はしばらく続くと思います。
詳細は分からないが、ここでの「日本の規制」って総務省の規制だろうか。国民の利便性を犠牲にして日本の通信会社を守るためのもの・・・?


2013年11月7日

サービス・リカバリー

午前中、大宮で打合せ。その帰り、友人とレストラン(百貨店)の食材偽装の話で盛り上がる。偽装をどうとらえるか、午後のクラスの学生たちがどう考えるか、反応を楽しみにしていると彼に話す。

午後からの「サービスマーケティング研究」のクラスで今日扱ったテーマは、サービス・リカバリー。サービス・リカバリーとは、顧客からの不満や不満足に対して企業がいかに対応するかということ。

学生たちに、いまメディアの報道で話題になっているメニューの食材表示偽装をどう思うか、そして自分が経営者だったらどうリカバリーを行うかと訊ねたところ、ある留学生は「フレッシュジュースと表示されてたものが冷凍のジュースであったとしても、別に構わないと思う」との意見。 実はこれは予想していた通りの反応。議論を深めるいいきっかけだったのだけど、残念ながら時間切れになってしまった。来週、フォローアップしたい。

2013年11月5日

人を活かす会社、とは

日本経済新聞社が行った「人を活かす会社」についてのアンケート調査の結果(総合ランキングなど)が掲載されていた。

そうしたランキングの妥当性は別として、以下のような記述には首をひねってしまった。
「人を活かす会社」とはどんな会社か。大手企業で働く人を対象にした「ビジネスパーソン調査」では、働く社員から見た「人を活かす」企業の条件を聞いた。その結果、労働時間の実態に関心が高いことが分かった。最も重視しているのが「休暇の取りやすさ」(48%)で、2位も「労働時間の適正さ」(42.4%)だった。
休暇が取りやすいかどうかということと、人を活かしているかどうかの関係が僕にはしっくりこない。労働時間の適正さに至っては、不適正であればそれを問題視し、正すように働きかけるべきだろう。あるいはそんなところは辞めるか。人を活かしているかどうか以前の基本的要件だ。つまり、休みの取りやすさや労働時間の適正さは、衛生要因であって動機づけ要因とはならないはずだけど。被験者であるここでの「大手企業で働く人」の意識が低いことに驚かされたのは、僕だけか。

ところで、記事の冒頭で「調査は上場かつ連結従業員1000人以上の企業とそれらに準ずる有力企業436社が対象」としていながら、記事の終わりに添えられている「調査の方法」では「有力企業の計1553社を対象に、・・・・回答企業は436社だった」となっている。紛らわしい記述である。

2013年10月30日

Summarizing Kotler

東京国際フォーラムでコトラーの講演があった。演題は、Marketing and Innovation: The Winning Combinationというもの。彼が2011年に発行した本(実際は共著者がほとんど書いている)、Winning at Innovation のなかからの話で始まった。いろんな企業のマーケティングの実例や逸話を盛り込んでの講演はとても上手だけど、話の中身はほとんどがこれまでの本の中で紹介されていること。全体的には、さしずめ Summarizing Kotler といった内容だった。

ところで、今回の講演は日立製作所が主催した「日立イノベーションフォーラム2013」の中のひとつのプログラム。今回は、コトラーのほか、スティーグリッツ、そして元世銀副総裁の西水美恵子さんの講演を聴いた。彼女の講演パートでは60分の講演のあと、30分強の質疑応答が行われた。

そもそもフォーラムの意味はというと「公開討論会」。しかし、今回のものだけではなく企業が行う「フォーラム」のほとんどはフォーラムにはなっていない。スピーカーが現れ、壇上で話をし、司会者が彼(女)にありがとうございましたと言ってそれで即終わり。主催者はフォーラムとは何かがまったく分かっていない。

その中で、今回、西水さんが会場からの質問に楽しみながら積極的に答えていた姿がとても好印象だった。

2013年10月29日

♨ 安兵衛湯

昨日の夕刊の文化面に、作詞家の喜多條忠が「横丁の風呂屋」を書いていた。

1973年、彼が26歳の時に詞を書いた「神田川」とその頃の彼自身の話だ。「神田川」は、彼が早稲田をやめ(除籍になり)、放送作家をやっていた時に「南こうせつとかぐや姫」のために書いた曲。「♪小さな石鹸 カタカタ鳴った」など四畳半フォークと言われたジャンルの代表曲である。

僕は早稲田大学入学時から2年間、大学のすぐ近くの下宿に住んでいた。だから早稲田界隈にある銭湯はほとんど知っている。

学生時代から、この曲を聴く度に舞台になったのはどこの銭湯か、少し気になっていた。今回の記事にその曲作りのもとになった銭湯の写真が載っていた。

ああ、安兵衛湯だ。早稲田通りの一本裏手の通りから少し入ったところ。大きな立派な煙突のある銭湯だった。

すでになくなってしまったが、いまも大学からの帰り道、そばを通るとふとその銭湯があった場所に目を向けることがある。

昔からつっかえてた謎から解放されたような気分だ。


2013年10月26日

「偽装」それとも「誤表示」

阪急阪神ホテルズで、レストランのメニューの表示が不正だったニュース。社長は、記者会見で偽装ではなく、誤表示だと主張していた。彼によると、だます意図を持っていたのなら偽装だが、今回は無知によって発生したものなので誤表示だという。

偽装を認めれば、経営者の責任が問われる。それを考えて現場の社員の「無知」のせいにしたのだろうが、「あのホテルの従業員(レストランスタッフ)は、芝エビとバナメイエビの違いや九条ネギと白ネギの違いも分からないで調理していたのか」と顧客や一般市民に思わせることになるのが分かっていないのだろうか。このことは、ホテルそのものの信用を大幅に損なうことになる。

つまり、その社長は自分が経営を任されている企業より、自分の責任回避を優先させたわけである。株主たちは今後、その点をしっかり追求すべきだろう。

それともう1つ、テレビの記者会見で驚いたのは、リッツ・カールトンホテル大阪の総支配人だというフランス人は日本語が理解できないこと。よくそれで日本にあるホテルのトップマネジメントが務まるものだ。

今回のいくつかの問題、次回のサービスマーケティング研究の授業で大学院生たちと議論してみよう。

 (追記)10月28日、阪急阪神ホテルズの社長が辞任した。辞めるのではなく、経営責任者として他にすべきことがたくさんあると思うのだが。日本ではなぜ経営者の責任の取り方が、こうワンパターンなのだろう。

 

2013年10月13日

流星ひとつ

30年ほど前に沢木耕太郎が書いたノンフィクションが、新潮社から緊急刊行として書店にならんだ。藤桂子とのインタビューである『流星ひとつ』だ。


彼女がなぜ引退を決意したか、そのことを中心に彼女の生きてきた道筋をたどるような内容である。全編、藤とインタビュアーである沢木の会話だけで構成されている。つまり、地の文がまったくないのだ。まるでラジオドラマのシナリオか何かのように感じた。

本の扉のところには、一九七九年秋 東京紀尾井町 ホテルニューオータニ四十階 バー・バルゴー と記されているが、実際はその後の何度もの追加インタビューを含めて書かれたものらしい。

30年以上前に書かれていながら、その本は当時は沢木の判断で公刊されなかった。藤本人からは出版してもいいと思うとの返事をもらっていたにもかかわらず。もし万一、いつかどこかで藤が復帰する時のことを考えたからである。

藤のこんな台詞、というか発言がある。「永く芸能界にいつづければいい、なんてことはない、と思うんだ。永く歌っていたからといって、紫綬褒章だかなんだか知らないけど、国から勲章をもらって・・・・・・馬鹿ばかしいったらありゃしない。その歌手はただ生活のために歌を歌っていたにすぎないのに。それだったら、どうしてお豆腐屋さんのおじさんにあげないんだろう。駄目な歌は、もう歌じゃない。駄目な歌を歌う歌手は、歌手じゃないはずなんだ」・・・・これが藤の歌手としての矜恃だったんだろう。

彼女がヒットを連発していた頃、僕はまだ小学校の高学年。当時いつも一緒に遊んでいた友人の鈴木君が彼女の大ファンだった。僕は、彼女が歌う歌詞の内容なんかよく分からなかったが、熱狂的な鈴木君の推しでしだいに引かれていったのを思い出す。小学6年生で、彼は藤桂子の歌になぜあれほど入れ込んでいたのかは、いまも分からないけど。