2010年12月23日

トップと社員の距離

暮れが近づき、他にやらなければならない事はたくさんあるのだが、そうした事からの逃避の気持ちもあり、部屋の片付けを始めた。手始めは本棚。まずはすべての本の背表紙が読めるようにすることを目指して整理を試みる。本棚の奥に収納されタイトルが読めなかったり存在そのものが分からない本は、ないも同然だからだ。

整理の基本は処分。もう読むことはないだろう本はどんどん捨てようと思うが、判別が難しい。迷わず捨てるに限るのは分かっているが。

奥から出てきた本の一冊に、元ソニー社長出井さんの「ONとOFF」(新潮社)があった。まったくページを開いてなかったので、なかをめくる・・・。

出井さんは忙しい。ソニーの社長業以外にGMの取締役などを務め、世界中を飛び回っている。時間がない時は、社用機のファルコンが活躍する。日本での週末は軽井沢で過ごす。昼間はゴルフ、夜はワインを楽しむ。時間があれば、ポルシェなど趣味の車を乗り回す。

そうした話が縷々綴られている。一般的な日本人経営者離れした、いかにも世界企業ソニーの社長らしいオフのスタイルが伺えて面白かった。日本企業の経営者でこれほどのハイセンスを身につけた国際的経営者が他にいるだろうか。

一番驚いたのは、本の巻末を読んでこれらの文章がソニー社内のホームページに掲載したものを書籍として再編集したものだということ。社員たちは、職場のパソコンの画面でこうした文章を読んでいたのかと思うと、彼らが何を思いながら出井さんの書いたものを読んでいたのか気になった。

僕が尊敬する経営者の一人に、元伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎さんがいる。今年6月からは中華人民共和国の日本政府特命全権大使を務めている。彼は伊藤忠時代、一時間あまりかけ電車通勤していたことで有名だ。昼食は一般社員と同じ社員食堂でとったり、関連会社のファミリーマートや吉野家の牛丼を食べることもよくあったという。

どちらがどうというのではない。置かれた立場も異なるし、また人それぞれの価値観であるが、部屋の片付けをしながら、ある面で対照的な二人の経営者のスタイルについて考えさせられた。

2010年12月21日

見たいように、人は見る

JR渋谷駅のホームに書道の作品が並んでいた。書かれた文字は、すべて「箱根駅伝」(のはず)である。下の写真で、左から2つ目までも箱根駅伝に読める。なぜなら、駅の壁一面に張り出された何十枚(百枚以上あったかもしれない)がすべて「箱根駅伝」だから。それ一枚では何て書いてあるのか読めなくても、僕たちはまわりに引っ張られて「箱根駅伝」と自然と読んで(読めて)しまう。

だが、ちょっと待てよ。この作者はひょっとしたらいイタズラ心を発揮して、本当は「焼肉定食」としたためたのかもしれない。あるいは、そこまで逸脱しなくても「箱根駅弁」と書いていて、一人ほくそ笑んでいるかもしれない。そうだったら愉快だ。

2010年12月11日

見てるようで、見ていない

昼間、通信会社から携帯に電話が入った。自宅のネット回線をADSLから光に変えるため、建物への引き込み工事について調査をするという。

調査する回線工事会社が建物を特定するために、住んでいる建物の外壁の色を教えてくれという。はたと考え込んだ。何色だったか・・・。もう10年近く住んでいる建物だ。自分で「知らないはずはない」との思いが脳裏を走る一方で、思い出せない。風景を思い起こそうとするが、建物の色が浮かばない。

なんだかばつが悪くて「分からない」と言いそびれ、つい勝手な想像でグレーと答えた。帰宅した際に見たのは茶色の建物だった。毎日見ているはずなのに、見ていなかった。

人は見たいもの、自分が興味があるものしか見ていない。テレビの広告はまさにそうだ。また、店頭に並ぶ数々の商品もまったく同様。企業は、自社の流す広告は自分たちのターゲットが見てくれているものと思ってしまうところから、計画が単なる思惑に終わってしまうことになる。

2010年12月10日

頭打ち

5歳から17歳の日本人男子の身長の伸びが頭打ちになった、という新聞の記事を読んだ。国の2010年度学校保険統計調査の結果から。1948年の調査開始以来初めてとある。

文科省によると「遺伝や骨格から考えると、日本人の身長は頭打ちになった」らしいが、遺伝的に身長が規定されているのだろうか。骨格の変化もないということか。だが待てよ、遺伝が決定要因だとしたら、今後混血の日本人が増えるようになれば状況は変わるかもしれない。「日本人」とは国籍のことである。

それにしても、純血で勝負するのはやはりもう限界なのだと、あらぬ連想をしてしまう。日本企業も日本人にこだわらぬ経営が喫緊の課題になっている。

2010年12月9日

あれから30年

ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で殺されてから、今日で30年になる。1980年12月9日夜、就職祝いを友人と新宿の飲み屋でやった帰途、駅のホームで号外を読んでいる人の紙面で知った。何か自分のなかに大きな穴が空いたような気がした。あの日、その後どうしたのか、まったく思い出せない。

2010年12月8日

一日何時間働くか

手帳の季節になってきた。書店や文具屋の店頭に種々の手帳がならび始めた。

勤務先から今年も大学名入りの手帳が配布された。歴史のある能率手帳だけあって良くできていている。見開きの左ページが一週間分のスケジュール記入欄になっていて、右側は自由に書き込める白紙ページになっている。

だけど、ある一つの理由から今年もこの手帳を使うことはないだろう。それは、スケジュール記入欄に事前に振られた時刻が朝8時から夜中の12時までだからだ。16時間!

つまりは、ほぼ寝ている時以外のすべての時間帯がカバーされているということ。この手帳を重宝する人ってどんな人か、ふと考える。自分はそうはなりたくないな、と思いつつ。

2010年11月30日

バースディ・ケーキ

今日はゼミが始まったとき、学生たちがサプライズで誕生日を祝ってくれた。

近くのケーキ屋からゼミの開始時間に合わせて大学まで配達してもらったという作りたてのケーキ。上には長いロウソクが5本と短いのが2本立ってた。
 

2010年11月27日

美術館?宇宙船?

瀬戸内海に浮かぶ豊島に美術館ができた。建築家の西沢立衛が、内藤礼の作品を展示するためだけに設計した美術館である。
http://setouchi-artfest.jp/artwork/26_rei_naito_ryue_nishizawa/

屋根に大きな穴があいていて、光はもちろん、風が入ってくる。周囲の梢の音も聞こえる。雨が降れば、当然雨が入ってくる。それでもれっきとした美術館。この美術館のコンセプトは、僕も中に入るまで分からなかった。
体験型の展示をしているために入館の人数を制限をしている。風に吹かれながら並んで待つ。
こちらはカフェ&ショップ。これも西沢立衛が設計。

2010年11月14日

明神ヶ岳へ

昨日は、スカッシュ仲間だった鈴木さんと箱根の明神ヶ岳へ。小田原駅から箱根登山バスで登山口へ向かったが、車中でお喋りしているうちに目的の停留所を乗り越してしまい、結果、予定外のルートで山頂に向かう。道程は長くなったが、富士山を背にすすきの揺れる気持ちのいい尾根を歩くことができた。

天気もまずまずで快調。紅葉もきれい。途中、山中を駆け抜けるトレインランナーや自転車で山頂までやってきたバイカー、わんこ同伴の登山グループなどに会う。残念ながら、近頃流行りの(若い)山ガールとは出会わなかったが、いろんな登山客に会うことができた。

帰りは強羅から登山鉄道で箱根湯本まで。その車中で、仕事でお世話になっているM食品の鈴木女史に偶然出会う。お互いにびっくり。



2010年11月10日

ニューロ・マーケティング?

昨日、早稲田大学の小野講堂でカリフォルニア工科大学の下條信輔さんのパブリックレクチャーがあった。講演内容は、彼が以前出版した本の内容をもとに情動と潜在認知を中心にしたものだった。

マーケティングの観点からも、いくつも面白いエピソードが紹介されていた。CMの効果を巡る議論や消費者が自ら取った行動を正当化するように判断する認知心理学からの知見は興味深かった。あと、店頭での商品の選択肢の過剰が消費者の不満足度を高めているという議論は、以前Scientific American誌でも似た記事を読んだことがあるが、消費者としての実感からも納得だ。

今年米国でアカデミー賞を受賞した映画「ハートロッカー」の印象的なシーンを思い出した。映画の主人公はイラクに出兵している兵士で、米軍きっての爆弾処理のスペシャリストである。テロによって巧妙に仕掛けられた爆弾を自らの手で処理をするのが彼の任務。専門知識と経験、的確な判断力と決断力が問われる仕事である。

その彼が任務を解かれアメリカへ一時帰国し、家族と一緒につかの間の休息の時間を与えられる。そんななか、彼は奥さんと行ったスーパーマーケットのシリアル(コーンフレーク)売り場の前で呆然と立ち尽くす。シリアルを購入しようと思うのだが、あまりの銘柄の多さにどれにするか決めることができないのだ。戦場で誰よりもタフな判断力を持って生きている彼がである。

このアイロニカルなシーンは、戦場と日常の違いを何にもまして鮮やかに描いていた(それにしても、アメリカの大型スーパーは本当に巨大だ。シリアルや缶スープの売場は、自分の好みのブランドが決まっていない客にとっては、迷宮に迷い込んだも同然かもしれない)。

今回の講演者の下條先生に初めて会ったのは、3年前の秋だったろうか。米国出張のついでに彼が勤務するカリフォルニア工科大のオフィスを訪ねた。その時は、fMRIのデモなどを見せてもらい、そしてニューロ・マーケティングの話などを聞いて帰ってきた。

今回、講演後に彼と少し話をしたが、ニューロ・マーケティングについては彼も僕と同様にその実用展開に関してはまだ現時点では懐疑的だった。企業のマーケティング担当者が飛び付くのを心配していた。その通りだと思う。とかくマーケティングをやっている連中は(僕もだが)おっちょこちょいというか、新しいものにすぐ飛びつこうとする。そうした連中からニューロ・マーケティングは、まるで魔法の杖のように勘違いされないとも限らないから。

2010年10月19日

学歴ロンダリングというヘンな言葉

大学の近くの書店の店頭に、少し前の週刊ダイヤモンドが今も高く平積みされていた。特集のタイトルは「壊れる大学」。その中に「驚愕の学歴ロンダリング」という記事があった。これは、有名校の大学院へ進学することでそれまでの最終学歴を変えることを指している。

記事はそのような事に対して多分にシニカルな論調だが、いったい何が問題なのだろう? 問題ないではないか。実際、低偏差値校といわれている大学の出身者でも優秀な奴は結構いる。たまたま15歳から17歳あたりで受験勉強しなかっただけだ。そうした連中が社会に出て、学びの必要性を本当に感じて大学に戻ってくる。僕は結構なことだと思う。

マネーロンダリングは違法行為だろうが、学歴ロンダリングをしたと指摘されている彼らは大学院の正規の入学試験を受けた上で入学しているはずである。そのどこに問題があるのか。学歴ロンダリングという言葉には、上からの侮蔑的な視線を感じる。

2010年10月14日

元気はもらうものか

「元気をもらった」という言葉をいつから耳にするようになったのだろう。

ニュース番組の終わりあたりでちょっといい話が紹介され、そこで一般市民へマイクが向けられるシーンが続く。人々は言う。「元気をもらいました」。わくわくした、心が躍った、いい気分になったという意味で、さほど深い思いが込められていないのが判る。「感動を分けてもらいました」というのも同じだ。が、そうした言葉が当たり前の表現になるにつれて、僕たちは元気やら感動というのは、どこかから与えられるものといつの間にか思い始めてはいないだろうか。

自発的に何かを発見するのではなく、元気や感動という「サービス」や「快楽」の消費者になりつつあるようにも思える。

2010年10月4日

商標権にまつわる経験

昨日、用語について書いたが、先日こんなことがあった。N村総合研究所のサイトに、マーケティング関連の提案書が掲載されていた。内容は、企業に対するセールスシートだ。

そのなかに、僕が商標権を持つ用語が複数回使われていた。一般の人に新しい情報や知識を広めるための論文や研究報告書なら構わないが、料金表まで載っているコンサル提案書に商標を勝手に使われるのはちょっと困る

ネット上の提案書に掲載されていた担当者3人に、メールでサイト内容が商標権に触れている旨を連絡した。ややあって返事が来た。「弊社法務部、知的財産部と協議の上、ご回答さしあげますので、少しお待ちください」。

そして数日後、「ご指摘いただきました、商標についてですが、弊社提案書の表現を「●●●●●●●」に変更いたしましたので、ご報告いたします。以後、ご指摘の商標については利用いたしませんので、ご理解ください」と連絡してきた。

サイトを確認してみると、掲載されているpdfファイルはすでに修正されていた。まあ、これで問題解決なのだろうが、気がつかなかっただけとはいえ他人の商標権を侵害してたのだから「スミマセンでした」の一言も添えるのが礼儀だと思うが・・・。ごめんさないと言うと、金でもせびられると思っているのかもね。

2010年10月3日

文科省の就職支援

大卒者の就職率の低さに対応するため、文科省が財政支援を始める。新聞の報道によれば「就業力」(何にでも「〜力」をつければいいというものではないだろうに)の育成に取り組む大学・短大に対し、一件当たり年間2千万円程度を援助するらしい。

学業を終えても職に就けないのは、確かに大変な事である。しかし、これは大学卒に限った話ではなく、高校を卒業した後も職に就けない生徒も増えている。そして、高卒で就職できそうもなかった、あるいはできなかった生徒たちの多くは大学に進学しているのかもしれない。

数の上ではすでにわが国は大学全入という環境下で、ことさら「大卒でも」とか「大学を出たのに」といった発想は転換した方がいい。

2010年10月1日

木田元と独習

昨日まで、日経朝刊の「私の履歴書」欄に哲学者木田元さんのことが取り上げられていた。彼は、英語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語、フランス語を農業専門学校と旧制の大学で独習した。

「・・・テレビもない、貧しくて酒も呑めない、そんな時代だからこそできたことなのかもしれない。考えようによっては、いい時代だったことになる」という言葉を噛みしめる。

2010年9月28日

「おひとりさま」と「独居老人」

朝刊を読んでいて、雑誌広告のなかに見つけた「おひとりさま」という言葉。東大上野センセイの本『おひとりさまの老後』から拡がった言葉だが、ネット書店で検索してみると「おひとりさま」をタイトルに据えた本は彼女以外にもいろいろあるようす。

ところで「おひとりさま」って誰のこと? 「独居老人」あるいは「一人暮らし」と何が違うのだ。同じなら、なぜわざわざ言い換える必要があるだろう。「少女売春」が「援助交際」と言い換えらえた時のように、実態は変化しないにもかかわらず言葉の違い一つで我々が受け取るイメージは一転する。本質を隠蔽しかねないこうしたレトリックには注意が必要だ。本田由紀らが『「ニート」って言うな!』でニートという言葉の不適切さを指摘していたが、「おひとりさま」にも同様のものを感じる。

そういえば、経営学の分野にも実態はほとんど変わらないのに、まるで新しいコンセプトであるかのような新しい用語やフレーズがしばしば登場してくる。たいていはコンサル会社が「創造」したものだが、こちらも注意が必要だ。

2010年9月26日

野坂昭如

野坂昭如と野田秀樹の対談集を読んでいたら、野坂が「日本はやがて没落します。そういう時に否応なく差別が出てくると思う」と語っていた。平成3年、19年前のことである。

2010年9月24日

Bizスポ

BizスポというNHKの夜の番組がある。平日の夜間に帯で流れている。内容は経済情報とスポーツ情報だから、Bizスポらしい。対象はサラリーマン。とりわけ中心ターゲットは、おじさん。

おじさんってのは、仕事に関係する経済ネタと息抜きのスポーツニュースにしか興味がない連中と思われているから、こうした番組(ビジネス&スポーツ)ができるんだろうな。番組コンセプトの割り切りの良さにはある面で感心するが、文化的な雰囲気は微塵もない。ならばいっそのこと、ビジネス&セックスにしたらどうだ(ま、無理か)。

2010年9月23日

富士山と中秋の名月

ようやく空気が澄んできたのか、朝霧高原のススキのむこうに富士山が全体を見せている。

今日は十五夜、中秋の名月である。

2010年9月22日

早稲猫(わせねこ)

6号館の端っこで見かけた早稲猫2匹。もっと近くで撮ったアップの写真もあるのだけど、近づいても人に慣れているのか逃げない。「早稲田大学地域猫の会」のみんなからいつも世話を焼いてもらっているからだろうな。幸せ者である。

2010年9月21日

学位授与式

敬老の日の昨日は、大学院の秋の学位授与式だった。僕のゼミからは、Ivan、Andy、Wendyの3人が無事修了式を終えた。式典の後は、大会議室で乾杯式を行い、その後僕の研究室でIvanがアルゼンチンからお土産に持って帰ってきてくれたワインで4人で乾杯。2年間という大学院の期間はあっという間だったと思う。これからが、彼らにとっての本番だ。

2010年9月15日

3年前はどのくらい過去か

これまでやろうと思ってながらできなかった、正式にはやらなかった部屋の片付けを始めた。

まずは床やテーブルに積み重ねたままで放置されてる本や雑誌を片付けることから手を付ける。古い雑誌はページを開かずにそのまま処分、と自分に言い聞かせて始めたもののついつい気になりページをめくってしまう。

積み重ねられた雑誌の山のいくつかはビジネス関係の雑誌だ。ある山は、3年くらい前のもの。めくってみると、わずか3年ほどしか経っていないのに注目の成長企業と持ち上げられた会社がすでに業界でほとんどプレゼンスを無くしていたり、ヒット商品として取り上げられたもののなかに今では完全に店頭から消えたものも少なくない。

なぜだろうかと、つい考えてしまう。あれからわずか3年。消費者の嗜好の変化(飽き)や競合製品の登場など要因はさまざまだが、それにつけても疑問は「なぜ変化に対応できなかったか?」の一点につきる。

歴史に学ぶというほどたいそうなものではない。近未来という言葉あるとしたら、3年前は近過去といえるかもしれない。その近過去を振り返ることで、僕たちは多くのことを学習できる。マーケティングの分野では、どうやって新市場を創造するかという「将来に向けた」テーマが重視される。それは当然のことだが、そのためには近過去に目を向けた考察が有効だろう。捨てるはずだった3年前のビジネス雑誌を教材に用いて行う授業「マーケティング・リフレクション」でも考えてみようか。

当初の目的だった片付けは今も遅遅として進まず。でも、あれやこれや考える事ができたから、まあ良しとしよう。

2010年9月12日

豊島の村プロジェクト

直島に渡る。まだ訪ねたことのない「地中美術館」を見たくて出かけたが、入り口で手に入れた整理券は入場(チケット購入)まで1時間45分待ち。汗がしたたる暑さに、根性が折れる。http://www.benesse-artsite.jp/chichu/

この島では、今回の芸術祭の作品以外にも常設の作品を数多く見ることができる。「村プロジェクト」という名の、古い民家をアーティストの創作のモチーフとして自由に仕立て上げてもらうという活動だ。大竹伸朗の作品もいくつかある。かつて歯科医院だった建物を舞台にした「はいしゃ」のなかでは、巨大な自由の女神が吹き抜けにスックと立っていた。(建物の内部は撮影禁止)


同じく大竹伸朗の手になる直島銭湯「 I ♥ 湯」と名づけられた美術施設がある。彼が得意とするスクラップブックの手法が建物の内外で展開されている。しかも、ここは本物の銭湯。なかに見学だけの目的で入ることはできない。つまり、500円入って入浴する。ケッサクだ。

2010年9月11日

男木島・女木島

高速船とフェリーで男木島と女木島へ。
 女木島は別名、鬼ヶ島。港にはピアノと帆船をもした彫刻がある。音楽がながれている。
島の中央部にむかし鬼が住んでいた伝えられる洞窟がある。そのなかにも作品が。

2010年9月10日

瀬戸内海の島々へ

駆け足ながら、瀬戸内海の豊島、直島、男木島、女木島をまわった。この7月から瀬戸内国際芸術祭が東瀬戸内のいくつかの島で開催されている。

下の写真は、豊島の港近くにあるレストラン。もとは空き家だった家屋を改造したもの。

港から車で数分行ったところには、横尾忠則の手になる作品があった。これもまた空き家を舞台に、自由な発想で横尾がつくり出した別世界。

池に浮かべられたオブジェ(戸高千代子)は、風で自由に動く。花びらのように見えたり、鳥のようであったり。のどかな島の風景と自然によくマッチしている。
下は同じく池を舞台にしたトムナフーリという作品(森万里子)。スーパーカミオカンデと繋がっていて、超新星が爆発すると白く光るらしい。
地理的な関係からか、関西からの訪問者が目立つ。人数が実際に多いからか、関西弁の声がでかいからそう思うのか分からないが。若い女性が多い。一人、あるいは二人組で来ている。次に若い男女のカップル。おそらく男たちは女の付き添いだろう。

それにしても、彼女たちの多くが一眼レフのカメラを首からぶら下げているのが印象的。キャノンやニコンはもちろんだが、僕が気になったのはオリンパス・ペンを持っている女性が何人もいたこと。活動的な女性によく似合う。

2010年9月8日

就職率9割の女子大

どの大学も、どうやって学生を集めるか知恵を絞っている。どんな特徴を出すか、いかに魅力的な大学として見せるか。

ある女子大は、今の時代に9割を超える就職率を売り物にしている。ある人が教えてくれた。それは、家事手伝いを除いているからだと。つまり、就職が決まらなかった卒業生は家事手伝いとして、就職率を算定する母数から除くらしい。男女共学の大学ではなく、女子大だからこそ効果を発揮する手法とでも云おうか。

おそらくこうしたギミックは、少なからぬ女子大がやっていることだろうが、やはり教育機関としては正直さを欠いているように思える。

2010年9月3日

日本へ

台湾ゼミ合宿の最終日。朝、ホテルの近くを散策。シュウマイを売る車の屋台に長い列ができていた。その場でシュウマイを包み、蒸し、販売する。すごい早さでシュウマイを包んでいく手際の良さに見とれる。
歩いていて目に飛び込んできたのは、大通りに面したビルの7階分くらいを使った巨大な垂れ幕。手を胸の前で合わせ微笑む女性。名前の隣に台北市議員とある。このビルに事務所でも構えているのだろうか。この女性はどういう人なのだろう。

2010年9月2日

台湾高速鐵路で台中へ

朝、台湾新幹線に乗り台中へ向かう。車両はおそらく日本製だろうか、細かなところまで日本の新幹線によく似ている。台中駅で現地出身の学生も合流。

台中駅からマイクロバスでGIANT社へ。自転車のフレーム製造で圧倒的な世界シェアを持つ企業である。この数年は、完成車メーカーとしてスポーツバイクやロードバイクなどで自社ブランドを強力に構築している。担当者の方から企業と製品についてプレゼンテーションしてもらった後、工場を見学。その後、学生たちとGIANT社の方で質疑応答、ディスカッションを行った。前日夜に学生が自分たちのために行った自主ブリーフィングの成果もあってか、熱心な質問やコメントが出たのがよかった。

工場の中は写真撮影禁止。下は、訪問の記念にいただいた自転車の模型。ペダルなどがちゃんと動くように作られている。
 昼食は、台中市内の日本料理屋で。その後、日本人パティシエのもとでメニュー開発を行っているというBIENという名のケーキ屋さんを全員で訪問。

2010年9月1日

「夜市人生」

台北のテレビで放映されていた「夜市人生」という番組。夜市とは、その名の通りナイト・マーケット。夜遅くまで営業している盛り場(日本の盛り場と違い、もっと庶民的で明るい感じだが)で、市内にいくつもある。

ドラマの台詞は台湾の言葉なので、内容は僕には分からない。商売をめぐる女の戦いがテーマみたいだ。セットなど番組の作りは安っぽいが、登場人物はみな美人。

Tzu Chi

台北市内にある慈済(Tzu Chi)という仏教系の巨大な慈善団体の本部を訪問した。この本部には、複数のテレビ放送用のスタジオやラジオ局まで備えられている。内部を見学しているうちに、渋谷区神南のNHK放送センターを見学しているような気になった。下の写真は、建物1階ロビーにある体験用のミニ放送スタジオ。キャスターよろしくプロンプターに映し出されるニュースを読みあげる学生。

リサイクル活動の施設やら、団体の創設者が修業時代に住んでいた小屋を再現した建物なども見学。
 

その後は、陽明山近くの温泉へ。熱いお湯と涼しい風が気持ちいい。

2010年8月31日

ゼミ合宿で台北入り

今年の夏はゼミ合宿で台北と台中を訪問。台北はちょうど2年ぶり。前回の台湾も学生たちと一緒に合宿目的で訪ねた。

今回、僕だけ一日早く台湾入り。その日の夕方から中国に出張するという台湾ベネッセの責任者に時間をもらい、現地でのビジネスに関してインタビューするためだ。

夜は、2008年にWBSを修了した黄 暄さんと2年半ぶりに会って食事。現在、台湾電通でアカウントマネジャーとして忙しく働いている様子。元気。

翌日は、台湾に台風が3つ同時に来ているとかで朝から雨。でもホテルにいても仕方ないので、台北駅前のホテルの裏手の店で粥をかき込んだ後、228和平公園、台湾総督府などに寄りながら龍山寺まで歩く。



龍山寺の裏通りは、薬草を売っている店が軒を並べている。自家製のフレッシュな?青汁のスタンドもたくさん。

MRTの駅へ行く途中で、古書店を見つけた。古めかしく渋い作りの入り口に誘われ中に入ってみると、日本語の本の棚もある。中上健次の『十九歳の地図』に再会。

その後、ホテルを移動し、中山地区のホテルで日本からの学生たちと合流。全員無事到着。それから台北101へ行くも、雨で展望台へは登れず。ちょっと残念。春水堂という現地で人気の喫茶店チェーンの店でタピオカミルクティー。

その日の夜は、現地の校友会の主要メンバーを集めての早稲田大学総長主催の夕食会に出席。隣の席に台中にある東海大学の名誉教授が座ってらしたので、台中についていろいろ教えてもらった。

2010年8月14日

会えようが、会えまいが。

先日の大河ドラマ「龍馬伝」のなか、京都の薩摩藩邸で西郷との面会を断られた龍馬たちが寺田屋に着く。龍馬が風呂に入っていると、そこに千葉道場師範の千葉重太郎が現れる。妹・佐那の思いを龍馬に告げるため江戸から京都までやってきたのである。

当時、江戸から京都までは約2週間かかった道のりを、相手に本当に会えるかどうかも分からずやってきた。彼のこの行動が史実かどうかは知らないが、昔は人に会うということはこういうことだったのだろう。

岩波書店版の『芥川龍之介全集』の最終巻に、芥川35年間の人生をまとめた膨大な「年譜」が収められている。芥川本人のメモや友人たちの記録、手紙をもとにして作成されたものだ。芥川のもとには頻繁に学生時代の友人たちが訪ねてきていたが、彼もよく人に会いに出かけていた。

大正8年の6月。彼はこの月に、都合14回 人に会うために出かけ、そのうち相手が在宅で会えたのが8回、待っていて会えたのが1回、あとの5回は相手が不在で会えなかったらしい。つまり、会いに行っても相手がいなかった確率は40パーセントを超えている。

東京に住んでいたと云っても今と違って交通手段は発達しておらず、相手を訪ねるのにはそれなりの時間と労力を要したのに違いない。会えても会えなくても、一日仕事だったに違いない。それでも会いに行って、会えればしかるべき話をして帰ってきたのだろう。

僕たちは事前にメールで日程の調整をし、また当日は携帯を持ってでかけるから、行っても相手がいなかったというはない。

でもどうだろう。訪ねたところ相手が不在で、しかたなく帰路に就く。帰りすがら、今日会えなかったから今度会ったときにはこんな話もあんな話もしようと思うかもしれ ない。あるいは、自分が話をしようと思っていたことを振り返り、話さなくてよかったことに気付くかもしれない。

今と比べてみれば不便極まりないが、そうして会えない相手との会話についても深く思索する時間を彼らは持っていた。

2010年8月13日

天体観測ドーム

神宮前から渋谷へ歩いてた途中で見つけたドーム。設置されてるのは、どう見ても一般の住宅である。そして、周りは繁華街。ここでの星空ショーには誰が集まっているんだろう。

2010年8月12日

Umep

表参道ヒルズで行われている梅佳代さんの写真展へ。梅さんだからUmep。Smapみたいだ。写真はどれも街のなかで見つけた「面白い」風景。子供の写真が多いのは、それだけ子供の表情や行動は面白いってことだろう。そもそも人間はもっとみんな面白い存在だと思うけど、植え付けられた社会の常識などがあたまにあって、「面白い」まま振るうことができなくなってしまう。

写真展会場前の表示。
 下は写真展の受付。
 全体的に、手作りでシンプルなのが良かった。

2010年8月11日

「人間活動」に専念

宇多田ヒカルが音楽活動をしばらく休止すると発表した。「アーティスト活動」を止めて「人間活動」に専念しようと思います、というのが理由だとか。「人間活動」という言葉使いが印象的だ。アーティストと人間は別と云うことか。

その日、仲間と飲みながら、自分たちだったら何を止めて「人間活動」に専念するかという話になった。

「残業活動」を止めて「人間活動」に専念するとか、「投資活動」をやめて「人間活動」に専念する、というのは分かる。「政治活動」をやめて「人間活動」に専念したい、という奴も理解できる。しかし、「隷属活動」を止めて「人間活動」に専念したいとか、「不倫活動」を止めて「人間活動」に専念するぞ、というのは一体どういう生活を送っているのだろう!?

2010年8月8日

トラクターは、アメリカ人の精神を体現している乗り物である

最近見た2つの映画にトラクターが出てきた。どちらもアメリカ映画だ。ひとつはトラクターが主人公みたいな映画で、もうひとつは主人公が語る昔のエピソードに登場する。

もちろん日本にもトラクターはあるが、僕たちにとってのそれはいくつかの農機具のひとつという域を出ない。一方、アメリカでは、トラクターは自立と草の根と反骨の象徴みたいだ。

「ストレイト・ストーリー」は、NYタイムズに掲載された実話をもとにデヴィッド・リンチが監督した映画だ。アイオワ州に住む73歳の老人(アルヴィン・ストレイト)のもとに、3歳年上の兄が心臓発作で倒れたという知らせが入る。ひょんなことで10年来仲違いをしていたその兄に会うため、彼はオンボロのトラクターに乗ってウィスコンシンまで500キロを超える旅に出る。車で行こうにも、目が弱っているため運転免許を持つことができない。しかも、誰かに乗せてもらって行きたくはない!からだ。

2ヵ月もの旅路を野宿をしながらトラクターで、 やっとのことで辿り着く。道すがらのいくつかの出会いなどのエピソードが、淡々としながらも深い感動を残す。

この映画のなか、アルヴィンは兄のライルが住む街にやっとのことで辿り着き、やおら一件のバーに入る。何年もそれまで訳あって止めていたビールをうまそうに一本飲み干し、店主に「ライルの家はどこか知っているか」と訊ねる。教えてもらった道を辿るが、またしてもエンジンのトラブルでトラクターが止まってしまう。思案にくれているところに大型のトラクター(!)がやってくる。またしても「ライルの家はどこか」と訊ね、送ってもらう。荒れ野のなかに建つちっぽけで粗末な家だ。だけど、その地域の人たちはライルを知っている。アメリカの地方のコミュニティの確かさも感じた映画だった。

日本では、所在不明の高齢者の追跡を自治体が始めた。今回は100歳以上の高齢者を対象にした調査だが、当人の家族に聞いても「知らない」「分からない」という応えが帰ってくるケースが少ないないという。まったくどういうことだろう。
もう一つは、トム・ハンクスが主演した「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」。マイク・ニコルズが監督している。アメリカ議会の実在の下院議員をモデルにしたノンフィクションを映画化したものだ。

主人公のウィルソンが、なぜ自分が政治家を目指したかを、機内で隣に座っている若いスタッフに語るシーンがある。彼が13歳のとき、彼の家の隣には市長をやっている人物がいた。彼はチャーリーが可愛がってた犬が、時に彼の花壇を荒らすのを心よく思っていなかった。ある日、その犬が地面に横たわり口から血を流して苦しんでいるのを市長を含む何人かの男たちが眺めている場面に遭遇する。彼らはドッグフードに砕いたガラスを混ぜて、チャーリーの犬に食べさせたのである。

自分の犬を殺されたチャーリーは、どういう行動に出たか。まもなく、その地区で選挙があった。順当に行けば、現在の市長が再選すると思われていた。チャーリーは投票日、投票会場から離れた同じ選挙区の人たちを投票会場に連れていき、市長への反対票を投じさせようと考えた。しかし、その地域の人々はみんな貧しくて投票所まで行くためのクルマを持っていなかった。13歳でまだ車の免許を持たないチャーリーが取った方法は、運転免許の必要がないトラクターを運転し、その地区と投票場を何度も往復して人々を運ぶこと。

彼は、トラクターに乗せて運んだ人たちに選挙については何も語らなかったが、ただ、投票場に到着した彼らがトラクターから降りるとき、現市長のポスターを指さし「彼は僕の犬を殺した」とだけ告げた。結果、彼は落選した。そして「その瞬間に、僕はこの国に惚れ込んでしまった」と語るシーンがある。

ぼくは映画の中のこの政治家は好きにはなれなかったが、彼のこのエピソードには心動かされた。

2010年8月5日

フィンランド人の英語力

フィンランドに出張で行っていたと云うと、今の時期の日本の暑さから「それは羨ましい、さぞ涼しかったでしょう」と言う人と、「フィンランドは世界一の教育国らしいですね」という2つの反応がおもに返ってくる。

フィンランドの夏が決して涼しくはなかったことは、既に書いた。では、フィンランドは世界に冠たる教育国かどうか。ちょっと調べてみた。こうした認識が日本人の中にできたのは、PISAと呼ばれる調査の結果からである。PISAは、OECDが毎年実施している国際的な学習度到達度調査のことで、世界41カ国・地域の15歳の生徒を対象に実施されているテストである。この調査の結果は、調査対象者の持つ総合的読解力、科学的リテラシー、数学的リテラシーの3つの基準にまとめられて発表される。

そこでフィンランドは世界第1位なのである。一方で、かつては世界1位、あるいは2位の常連だった日本がランクを下げ続けている。 その結果、「なぜだ」という声が上がってきた。15歳といえば、中学3年生。日本の中3が年間700時間もの授業を受けているのに対して、フィンランドでは600時間ほどらしい。そのあたりのことも多くの日本人に対して疑問符を突きつけたのだろう。

さて一週間ほどフィンランドを旅していて感じたことの一つは、彼の地では英語で不自由なくコミュニケーションができるということ。もちろんこの国の母国語はフィンランド語であり、それは英語とは発音や文法、構造もずいぶん違う。しかし、どこに行っても基本的に20代、30代の人たちにはほぼ全員英語が通じた。職種を問わずである。

その理由は学校教育にあると云われていている。地域によっても違うのだろうが小学校2、3年制から第一外国語として英語を学び、小学6年制ともなると基本的な日常会話が英語でできるようになるという。日本では考えられない。

その理由の一つとしてあげられるのが教員の質の高さである。フィンランドでは初等、中等教育においても教職にある人たちの社会的地位が高いことが背景にある。 これは親の意識の問題でもある。モンスターペアレントなどと称される非常識きわまりない大人が跳梁跋扈する日本では無理な話かもしれない。内田樹氏の言を借りるなら、親が親である前に完全な(そして歪んだ)消費者に染まってしまっている。

そういえば、英語教師で思い出したことがある。もう20年くらい前になるが、英国の大学院で勉強していたとき、夏休みの時期に日本から英語教師のグループがやってきた。大阪の府立高校で英語を担当しているという10数人の先生たちだった。当時の文部省が派遣した教員研修の一環とやらである。

なぜかほとんど男性だったが、英語担当の教員だからと云って英語が話せるわけでなく、いつもキャンパス内をつるんで歩いていた。そういうのは奇妙な風景なので、周りから目立った。最初のうちは、慣れない外国の生活に不自由していたようなので、必要に応じてアドバイスなどしていたが、納税者の金で研修に来ているにもかかわらずあまりにも物見遊山な姿勢に呆れ、途中から話をすることを止めた。

PISAの成績はともかくとして、このことからも思い返せば、その当時から日本人の生徒の英語力の問題ははっきりと予見できたともいえる。

2010年8月3日

亀田総合病院

朝7時55分東京駅発の京成バスに乗り込み、千葉県鴨川市にある亀田総合病院へ。2時間強の旅路。バスの終着点がその病院になっていて、そこの停留所ではWBSを2006年に修了した佐野さんが僕たちを迎えてくれた。いまは亀田総合病院を経営する医療法人の経営企画室長補佐を務めている。

今回の訪問は、学生の大内さんの声がけに13名の学生が集まり、そこに僕も参加させてもらった。院長の亀田先生からの病院についての概要説明のあと、佐野さんと特命副院長のウォーカーさんから詳しいプレゼンテーションをしてもらった。続いて、ウォーカーさんに病院の各所を案内してもらった。

ここは一般的な病院とは全く別の存在である。何が一番異なっているか。そこで働く人たちの意識である。ここには、本当の顧客視点があった。ここでは医師が一番ではなく、患者がつねに中心におかれている。そして、そのためのインターナル・マーケティングが実践されていた。
写真は分娩室。ここはホテルの一室のような雰囲気になっている。鉗子などの医療器具、機器はすべて壁に収納され見えないように設計されている。ベッドも通常のベッドに近づけたデザインになっている。

出産する女性は、さまざまな金属類の器具がすぐ脇に用意されたベッドで、日常の生活ではありえないような股を開いた姿勢で横たわされるのが普通だ。安心してくださいというのが、無理な話だろう。そうした当たり前の妊婦の気持ちを理解し、この分娩室はデザインされている。

こうしたアプローチが技術的に難しいことではないことは、医療に不案内な僕にも分かる。つまりは、イマジネーションの問題なのである。

2010年8月2日

「これらの更新」って何だ

ウィンドウズのPCを起動すると、毎回、「更新の準備ができました。これらの更新をインストールするには、ここをクリックしてください」という表示が画面に現れる。

しかし、「これらの更新」が何を示しているのか何も示しておらず、利用者としてはまったく不明。

かつてそうした表示につられて不用意にクリックしたがため、それまで使っていた日本語変換ソフトがマイクロソフト社のものに勝手に切り替わってしまったり、デフォルトで使っているブラウザーが同様にマイクロソフトの製品に変更されたという腹立たしい経験がある。だから、その後は一切こうしたマイクロソフト社の表示は無視するようにしている。

利用者を無視したこのような不正確な日本語表記はいい加減に止めるべきだろう。

マイクロソフト社に言わせると、「顧客のセキュリティと利便性のためにやっている」などともっともらしく説明するのだろうが、実際は利用者を馬鹿にし愚弄している。

マイクロソフトって会社、気持ち悪い。

2010年7月30日

小学校の教室で

「不思議な光景だった」という文から始まる記事が、7月29日の全国紙の社会面に掲載されていた。

それは千葉県柏市の小学校の教室での風景である。6年生の英語の授業を担当しているのは、担任の日本人の先生とオーストラリア人講師の二人。だけど、二人は言葉を交わさない。お互いに話すことを禁止されているからだ。

記事によれば、外国人講師は業者を介して雇用されているために、担任の教師が直接何かを依頼することは禁じられているという。実際、4月に外国人講師にカードを黒板にはってもらった教諭が千葉労働局から是正の指導を受けたという。そうしたことを回避するために考案された苦肉の策が、教室で担任の教師と外国人講師が口をきかないという先の方策だったという。バカな話である。

小学校の教室と云うことで思い出した映画がある。チャン・イーモウが監督した「あの子を探して」という中国映画だ。中学校も出ていない13歳の少女が、一ヵ月だけの代理教員として貧しい片田舎の小学校に就く。本人が望んだことではない。彼女の家も恐ろしく貧しいのだろう。一ヵ月の代理教員として50元もらえるという村長の話が動機だった。相手が小学生とはいえ、13歳の少女が教壇に立ってもまともに授業ができる訳がない。本人も決してそれを求めたわけではない。毎日、黒板一面に教科書の一課を書いてはそれを子供たちに書き写させるだけの授業をしていた。子供たちは当然、そんな授業を楽しいと思うわけもなく、彼女の授業に馴染めない。

ある日、その中の一人の男の子が学校に来なくなった。彼の父親はすでになく、そして母親は病気で伏している。一家は借金を抱え、彼が街に働き手として送られたのである。その彼を村へ戻すために、13歳の先生が一人で彼を捜しに出かけるという話である。しかし、街までのバス代も持っていない。彼女の往復のバス代と彼の村までのバス代を稼ぐために、クラスの全員の子供たちが知恵を出し合って方策を練るシーンがいい。

結局、街までのバス代の工面ができず無賃乗車を決め込んでバスに潜り込むのだが、そのバスからも放り出され、遠路歩いて街までたどり着く。そこからの行動力がすごい。金がなくて3日間ほとんど何も口にしないまま、できる限りのアイデアと行動力をもとに最後はテレビ局のカメラの前で彼に呼びかけるチャンスを得る。それがきっかけでその生徒と巡り会うことができ、一緒に村に戻ってくる。

50元のお金を目当てに小学校の代用教員を引き受けざるをなかった少女が、一ヵ月という短い時間のなかで驚くほど成長し、子供たち(彼女もまだ子供だけど)と本当の気持ちのつながりを得る過程が魅力的に描かれていた。

2010年7月25日

フィンランドの森

那須にフィンランドの森という場所がある。そこにはレストランやパン屋、チーズ屋、腸詰め屋、それに薪ストーブの実演販売をしている店などがある。

写真はそこのレストランで出てきたカプチーノ。使っているillyのコーヒーも美味しいけど、こうしたちょっとした工夫がもっと美味しい。

2010年7月16日

MANGA

ストックマンという名の百貨店の一部にAkateeminen Kirjakauppa(アカデミア書店)という大型の書店が入っている。ゆったりとした雰囲気のいい本屋である。2階には、フィンランドが誇るデザイナーであるアアルトの名をつけたCafe Aaltoがある。

その一部にMANGAとコーナー表示された棚があり、ドラゴンボールやNANAがずらりと揃えられていた。吹き出しは英語の表記に直されている。MANGAの棚の隣にはCOMICSがある。日本の漫画以外のマンガである。

MANGAとCOMICSは何が違うか。マンガは日本製コミックの別称なのだろうが、造本も違うのに気がついた。MANGAは日本式に右綴じで、COMICSは洋書がそうであるように左綴じである。

 
この本屋もそうだけど、犬を連れて買い物をしている人が多い。カフェのなかにも犬連れの客がいる。どの犬もおとなしい。柴犬を連れた客に出会った際、思わず「おっ、シバ」と呟いたら、分かったのか、嬉しそうに「Yes!」と返ってきた。
 

2010年7月15日

Into the woods

森と湖の国と形容されるフィンランドの一端を見たくて、ヘルシンキから鉄道とバスを乗り継いでNuuksio National Parkへ行ってみた。

森を3時間ほど散策する。印象は、一言で言うと八ヶ岳みたいだった。ただ、日本の山と違うのは、鳥がいない。ほんの一部で鳥の鳴き声を聞きながら歩いただけだ。妙に静かだ。鳥のさえずりを聞きながら歩く日本の山の方が僕は好きだ。

フィンランドの気温は20〜25度と聞いていたが、今回の滞在中ずっと30度近くの暑さに悩まされた。結構湿度も高い。例年以上に熱波が影響しているらしい。それも来週早々から収まり、最高気温25度程度になるらしいが、その頃には帰国しているのが残念。

2010年7月14日

ヘルシンキのかもめ食堂

少し早い夕食を取るため、Kahvila Suomiという名のレストランを訪ねた。小林聡美らが出演した映画「かもめ食堂」の舞台になった場所だ。

街の中心部から少し離れた静かな地域にある。店の表にはいまも映画で使った「かもめ食堂」の文字が残されている。

ガイドブックにもこの食堂のことは載っていて、日本人観光客がよく訪ねてくるらしい。僕が行ったときも、他に観光客らしい日本人の若いカップルがひと組、ビールを飲んでいた。

その店では星君という25歳の大阪出身の若者が働いていた。もともと日本で日本料理の調理人をしていたが、日本以外から日本食を考えてみたいと思いたち、その彼の心の糸に引っかかったのがフィンランドだったらしい。

ヘルシンキの学校でフィンランド語を集中コースで勉強、その後市内の高級ホテルで日本食担当の調理人を務めた後、何もツテがないままカモメ食堂を直接たずねて働かせてくれるように頼んだらしい。映画を観て訪ねてくる日本人客が多かったオーナー夫婦にとっても願ってもないことだったらしく、めでたく採用。厨房だけでなく、レジやフロアなどの仕事もしている。

飛び込みで仕事を求めるのが、どこでも彼らのやり方だと聞かされた。料理人としての腕前だけで勝負できる世界だからだろう。「包丁一本さらしに巻いて」の世界が、まさに世界を舞台にあることを知った。

外国で彼のような日本人に出会うと嬉しい。フィンランド人と日本人はその性格や労働感が似ているところが多いと感じたけど、それでも言葉はもちろんのこと、多くの面で違いがあることは間違いない。

だから、日々、苦労は多いはずだ。その中で、そうした両国の違いを感じつつ、それらをある面で楽しみながら、その先の自分の夢を目指して頑張っている。飲食店の営業に関する規制が最近強まって、クリアしなくちゃならない問題が増えたと嘆いていたけど、彼が早く自分の店を持てることを祈っている。