2016年1月29日

Over Penalty

このブログで、芸能人ネタを書いたことはこれまでないと思う。もともとあまり興味がないし、僕なんかよりそうしたことへ適切なコメントができる人がたくさんいるから。

だけど、今回はちょっと気になったことがある。タレントのベッキーへのさまざまな「処罰」である。犯した「罪」は、不倫疑惑である。

彼女が人非人ででもあるかのようなメディアでの取り上げ方には、とても違和感を感じる。また、不倫疑惑が理由でテレビ番組から降板させられたり、出ているCMが差し替えられるのは、その意図を図りかねる。

犯罪を犯したのでもないのに、どうしてここまでの過剰反応になるのだろう。Over penalty(過剰な罰則)という言葉があるが、まさにその例だ。まるで「水に落ちた犬は打て」とばかりだ。

世の中に聖人君子などいないし、ましてや彼女を悪し様になじるメディアの人間は、そうしたものから最も遠い人間たちだろう。

女性スキャンダルに事欠かないフランスやイタリアの大統領を見てみればわかるが、不倫だとか何だとかは個人的な趣味の領域。放っておけばいい。


2016年1月27日

控えめだから、気を引かれる

高田馬場駅へ向かう途中、都バスの車中に掲示が貼ってあるのを見つけた。

「ドアが開くまで席を立たないで頂けると 乗務員は安心できるんです」「しっかり掴まって頂けると 乗務員は安心できるんです」という2枚。



手書きでコピー用紙に筆で書いてある。都バスには、たまにもの凄く不機嫌そうだったり、客に対して高圧的な態度の運転手がいて(客の多くが学生の学バスだからか)、あまり好きではないのだが、だからこそこうした控えめなメッセージが印象的にうつる。

2016年1月26日

いつまで西洋に追いつこうとするか

オックスフォード大学の日本オフィスから公開レクチャーの案内があり、三番町の会場に出かけた。

スピーカーは、現在オックスフォード大学の社会学科で教鞭を執る苅谷剛彦さん。演題は、“Still Playing the Game of 'Catch-up with the West’?”(西欧への追いつき追い越せは終わったのか?)。

1 時間ほどの講演の後は、質疑応答があった。その際、日本で日本人である苅谷さんに日本人の中年男性が日本語でなく英語で質問をするのを間近で見ていて、経済的な面は別として精神的には間違いなくいまだキャッチアップしようとしていると感じたのは、僕だけだろうか。

2016年1月17日

肉を食らうこと、生きること

昨日の「木村達也 ビジネスの森」にお招きしたゲストは、先週に引き続き『狩猟始めました』(ヤマケイ新書)の著者、安藤啓一さん。彼の本業はライター、自然観察指導員である。


野生の肉(主に鹿と猪)を食べるということ。そのことで、自然と人間がつながっていることや、気候の変動についても自然と意識が向いていくという話をうかがった。


鹿の神々しい姿に猟銃の引き金を引けなかったというお話に、じゃあ猟をしなければいいではというシンプルな(短絡的過ぎる?)コメントを返そうと一瞬思いつつ、そうした逡巡や時としての葛藤も含めて猟というものは成り立っているのだろうという考えが頭をよぎり、言葉に詰まってしまった。

安藤さんを迎えての先週の放送のあと、リスナーの方から「動物にも命がある。家族もいる。食べるものに困っているわけでもないのになぜ彼らを撃ち殺すのか」というようなメッセージを番組宛にもらった。

確かにそうかもしれない。しかし、山中に生息している動物を自らの手で仕留めて食べることと、家畜として飼育された動物が食肉業者によって解体処理されたものをスーパーマーケットや食肉店で購入して食べることの違いはどこにあるのか。僕には正直、よく分からない。

話は変わるが、今日横浜の劇場で観た映画「白鯨との闘い」は19世紀初頭の難破船を巡る実話とされていて、そこでは漂流を続けるボートの上で残った乗組員たちが仲間を食べて生き延びた話が挿入されている。

メルヴィルの小説「白鯨」のもとになった巨大なマッコウクジラと船乗りたちの闘いとともに、クジラに敗れた人間が考えた、あるいは生き物として取らざるをなかった究極とも云える生存手段がテーマになっている。

これにもまた考えさせられた。

昨日の番組で選んだ曲は、ジュリア・フォーダムの「Hope, Prayer, and Time



2016年1月15日

1時間で配達してくれる

昨年11月から、都内および川崎市のいくつかのエリアで、アマゾンPrimeNowのサービスが始まった。

僕は残念ながら先月引っ越ししたため、現在は対象エリアには入っておらず利用はできない。今後エリア拡大で利用できるようになるのを期待している。

通勤で東急東横線を利用することが多い。その際は、降車駅の出口の関係で一番前の車両の最前部に乗るのだが、アマゾンPrimeNowの広告がそこの網棚上の額面広告として掲示されていた。


たまたまそのスペースしか取れなかったのか。いや、そんなことはないはずで、意図的にその場所に掲示したのだろう。ネットで注文して翌日に届くだけで十分早いと思うのだけど、「せっかち」な人はもっともっととスピードを求める。

そうしたせっかちな連中は(僕もその一人だ)、電車に乗る際も降りる駅や乗り換える駅を念頭にどの車両に、さらにはその車両のどのあたりに乗るかを考える。

今回のアマゾンの電車内の額面広告は、明らかにそうした「せっかちなセグメント」に向けた訴求をしている。

なぜこの広告に気を引かれたのか考えてみたところ、先日読んだ本のなかで橋本治が「私は、くどいわりには面倒くさがりで、つまりはせっかちである」と<せっかち>を定義しており、どうも他人事とは思えなくて気になっていたせいかもしれない。

2016年1月7日

平成28年のオフィーリア

1月5日朝刊の新聞広告、中面見開き全面広告で目が止まった。目が釘付けにならない方がおかしい。表現の巧妙さ、メッセージの先鋭さ、1月5日というタイミングで掲載した戦略性、新聞という媒体を使ったスマートさ、広告主の思いきり。

これまで無数の広告を目にしてきた。しかし、これほど唸らされた広告がいままであったか、なかったか・・・。


ヘッドラインは「死ぬときくらい 好きにさせてよ」。合成写真は、ラファエル前派の代表的作品であるミレイの「オフィーリア」をもとにしたパロディである。モデルは樹木希林。広告主は宝島社。

コピーは、なかなかの文明時評になっている。科学技術の(ありがたい)進歩のお陰で昔のように悠々と死ねなくなった時代に、死ぬときくらい自分の意思で静かに逝かせてというのだ。

病気を治し、命の炎を消さないようにすることが医学の本来的な使命である。生物としての人間の適正な寿命(あるとして)がどのくらいなのかは、僕は知らない。しかし、医学の進歩によって人が自分の生を生きるのではなく、生物として生かされ続けることが増えていることは知っている。さて、それをどう考えるかだ。哲学の問題である。

広告を見てしまったからというのもあるが、樹木希林さん以外にモデルは思い浮かばないのも、「負けた!」という感じだ。